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正しさ・善という価値の相対性について
正も善も本質的に一個人の物たりえない。
何故なら人間は常に自分を取り巻く社会の影響を受けて生き、自分の価値観を構築し続けているからである。
つまり、「自分が正しいと思っている事」を自分が何故正しいと思っているかといえば、その「正しさ」は、それまでの人生で触れた森羅万象、自らが所属した、あるいは触れた事のある共同体から影響を受け、自らも考えた結果として得心したものだからである。これは善も同じである。
逆に言えば、それを導き出させる社会から離れれば、それは全て相対的な物となる。
故に生来、社会の正・善を理解しないサイコパスや理解しつつそれを軽視するアウトローが存在する。
この世に社会的な正しさ・善に由来しない絶対善があるなら、それを生来理解できなかったり軽視する事はあり得ない。
また、社会一般の正・善で無く、個人的な善と個人的な正しさであれば、それはそれ自身相対的である。
つまるところ、全ての価値は基本相対的である事を理解しなければならない。
アメリカの善は彼らの正しさを広める事であり、ナチスドイツの善はユダヤ人を欧州から駆逐する事だった。
他の善が他に比してより善か不善かは比較のしようが無いので分かりようがないが、我々の善から見てナチスの善が不善である事は間違いない。
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