ヘイトスピーチ規制への誤解とヘイトの解消に向けて

ヘイトスピーチとは民族的・人種的・宗教的のような容易に変更できない属性を持つ個人・集団に対する差別・敵意・暴力等の憎悪を扇動する表現を指します。

これは如何なる民族・人種・宗教に属していようとも変わりません。
つまり、マイノリティ側からマジョリティ側へのヘイトスピーチも成立すれば、マイノリティからマイノリティ、マジョリティからマジョリティに対するヘイトスピーチも成立するのであって、一部の人が言うような
「言う場所・言う人・言われる人によってヘイトスピーチか否か変わる」ようなものではありません。

その証拠に英独仏のヘイトスピーチ規制ではマイノリティ側からのヘイトスピーチも規制されています。

米英独仏におけるヘイトスピーチ規制
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_9977281_po_078402.pdf?contentNo=1

しかし、今日の日本では「言う場所・言う人・言われる人によってヘイトスピーチか否か変わる」という妄説が蔓延ってしまっています。

例えばラサール石井さんのツイートでは、

>「他国」を「ヘイト」するから「差別」なんだよ。「自国」の有り様を「批判」するのは「ヘイト」ではないよ。「自国ヘイト」なんて言葉を作っちゃだめだよ。

と発言されていますが、まず「ヘイト(憎悪)」と「差別」の区別がついていないように見受けられる点、”「他国」に対する批判はヘイトであり「自国」に対する批判はヘイトではない”とおっしゃっているように見える点が問題です。

一つ目に、差別とは合理的理由のない区別をいい、ある属性を持つ人や集団に対する優遇・冷遇をいいます。 これはヘイトの内に含まれますが、ヘイトは敵意や暴力等、差別より広範なものを指します。
二つ目の、「他国」か「自国」かでヘイトか否かが変わるというのも誤りです。ヘイトは「ある属性を持つ個人・集団に対する差別・敵意・暴力等の憎悪を扇動する表現」であって、発信者や対象が何かは関係がありません。

こうした間違いが生じるのは、ヘイトスピーチ規制を「積極的差別是正措置(アファーマティブアクション)」のように捉え、『特定の属性を持つ人々の権利を増進する』ためのものと誤解しているためと考えられます。

この原因は『ヘイトスピーチ=差別』であり、『ヘイトスピーチ規制=差別される側を優遇する』という、戦後日本の『階級闘争的』な人権擁護観にあります。

階級闘争は社会的弱者(マイノリティ)による社会的強者(マジョリティ)への闘争を通じて不正不平等が克服されるとする考え方であり、この考え方の下では、社会的弱者が優遇され地位を高める事が絶対的善とされます。

つまり、西洋のヘイトスピーチ規制が『属性間の憎悪の扇動を規制する事によりヘイトを無くす事』を目的にしている一方、日本におけるヘイトスピーチ規制は『差別する側の憎悪表現を規制する事により差別される側の権利を優遇する事』が目的になっているのです。

この違いは大きいです。 何しろ後者は『ヘイトを解消することを目的としていない』のですから、これを元に成されたヘイトスピーチ規制はヘイト解消ではなく、社会におけるヘイトの増幅をもたらすことになるでしょう。

階級闘争的な人権擁護観に基づいて『差別される側の権利を優遇』するために、差別される側からの一方的なヘイトスピーチを許せば、人々のヘイトはより過激に、より大きなものとなって属性間の対立を深めるでしょう。

例えば、最近、在日韓国人三世が公衆の面前でヘイトスピーチをしたとネットで騒がれていますが、これは「発信者や対象によってヘイトか否かが変わる」という誤解によって、『自分の憎悪表現がヘイトスピーチである事に気付けなかった』ためです。

ヘイトがヘイトと分からずにヘイトスピーチを行う人々とそれに耐え忍ぶことを強制される人々。 表現は規制できても内心の憎悪を規制し無くす事はできません。 抑圧されたヘイトはより深刻な形で噴出する事でしょう。

そうならない為には、英独仏のように如何なるヘイトスピーチをも規制するか、アメリカのように自由な表現を容認し、議論と理解によってヘイトを解消していこうとするか、どちらにしても現在の日本でヘイトスピーチ規制を推進する人々のいうような形での規制は絶対に避けなければなりません。

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