見出し画像

【重要】空気の絶対化はされているか?

最近、「空気の研究」を元に日本や日本人の欠陥や日本が窮地に陥っている要因を分析している論説をいくらか見た。

だが、空気の研究自体、当時の限られた知的資源に基づくもので、日本人特有の性質をあぶりだしたとは言い難いものであり、それに基づいた論説も、また見当外れとなる可能性が高い。

これは憂うべきである。

そこで、今回はかつて空気の研究に対する批判をまとめた記憶を元に記事を書いてみた。

◆空気の絶対化は日本特有?

もし、空気の研究でいうように日本人が唯一神教と異なり絶対的なものを持たないが故に相対的な「空気」を絶対化しているとするならば、

社会の根底に唯一神教を伝統として持つ欧米においてものような「空気の絶対化」に相似した事例が存在する事実をどうとらえればよいのか?

(例)
 ・ファシズムの普及、ナチスの台頭
 ・独伊企業の旧独裁体制からの決別と再出発
 ・冷戦期の苛烈なレッドパージ
 ・BLMに伴う暴徒の発生。
 ・Qアノンフォロワーが起こした騒動。
 ・ポリコレを盾にしたキャンセルカルチャー等

これらはハッキリ言ってしまえば、『大勢に従う行い』『時流に乗る行為』であり、必ずしも日本人に特有の事象ではない。

行動心理学ではこういうのを「バンドワゴン効果」という。いわゆる勝ち馬に乗るという奴である。

同調圧力にしても「ミルグラム効果」や「沈黙の螺旋」と呼ばれる現象が知られており、人類の歴史上たびたび見られるものである。

これはもっとミクロな例、プロジェクトチームの会議などを見ても『空気』が海外でも日本同様に機能している事が分かる。

結局のところ、「空気の研究」における『空気の絶対化』とは、一言でいえば「バーナム効果」、誰にでも当てはまる事を自分たちに特有のものだと思い込んでしまうそれにすぎないのである。

◆本当に『空気』を絶対化していたのか?

そもそも”相対的”な『空気』を”絶対化”しているのであれば、その変化はより急激で節操のないものになるはずであり、誰かの発言が空気を揺れ動かすごとに皆の態度が一斉にコロコロ変わってしまうというようなコメディの如き日常が存在しなければおかしい。

にも拘わらず日本では戦中・戦後、次のタームに転換するまでの間は一貫して『空気』が維持され、その空気の下、先鋭化が加速するという現象が起きていた。

ぶっちゃけ、『空気の絶対化』は起きていないのである。

◆唯一神教文化との対比という手段の限界

「空気の研究」はこうした戦中戦後の日本社会における『空気』の一気呵成の転換をテーマに考察された書籍であるが、その原因を一神教文化と日本社会の相違に求める事に限界があった。

絶対・相対の対立関係にあっては日本の側が相対の側に置かれるのは自明であるが、だからといって唯一神教圏の人々が常に絶対的な価値指標に基づいた判断をしているというわけではないのは前述したとおりである。

◆総括

一言でいえば、「空気の研究」は理想化された唯一神教的精神の”イデア”と自分達の”現象”を比較して反省点を探した懺悔の書なのである。

はなから悲観的・否定的に、先入観を持って観察された結果を鵜呑みにしては実体を見誤る事になる。

よって、「空気の研究」に一面的な正しさはあっても、必ずしも実相を明らかにできてはいないし、この論をもとにした論や施策が実際に即すとは言い難いであろう。

しかし、空気の研究が誤りであるとすれば、戦中戦後の日本人の先鋭化や転換がどうして起こったかを説明する別の理論が必要となろう。

それについても用意してあるが、また後日である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?