見出し画像

春の歌 スーベニアをあげよう


この時期ラジオを聴いていると、必ずと言っても良いくらい流れる曲がある。
スピッツの「春の歌」。
“春”といえばうっかり、別れのさみしさ切なさを歌ってしまいがちだけど、文字通りの、“春”の“春”らしさそのまんまの響き。10代前半に狂ったように聴いていたため、私の感受性は間違いなくこの曲によって形成されていると思う。
 
この曲は2005年にリリースされ、アルバム「スーベニア」に収録されている。
このアルバムが、私は大好きだ。春の始まりのぼやぼやした空気感が最高。スーベニアというタイトルも素晴らしい。ギフトや、プレゼントではなく、スーベニア。
 
私はお土産を渡すのも、貰うのも大好きだ。ちょっとしたお礼を渡したいのだけど、ちょっと重くなりすぎるかなーという時に、遠出するタイミングが重なるとすごく嬉しい。「はい、これお土産!」という風に、日ごろの感謝を伝えたい人にさらっと渡すことが出来る。
 
ギフトだと相手の好みを推し量る必要があるし、プレゼントだとすんごく親しい関係性じゃないとダメな気がしてくる。お土産の気楽さに何度助けられたことか。何をあげても喜ばれ、ついでに会話も弾む。「いつもありがとう」という言葉を添えつつも、逆に気を使われたりお返しをもらったりする可能性は、限りなく少ない。
 
最近よく会話をするようになった職場のAさんは、とにかくよく喋る。2人でくだらないことをダラダラ話すのが好きなのだけど、最近気が付いたのは、Aさんはまるでお土産話のような気楽な話しかしないということ。
まず、私に関して個人的な質問を全くしてこない。Aさん自身の事は面白おかしく話してくれるのだけれど、それと同じくらいの情報量を私に求めない。ただゲラゲラ話をしているかのように見えて、実は、ものすごく会話の内容に気を使って下さっている。
 
Aさんとの会話は、GW明けのお土産交換会のようだ。「〇〇へ行った」「〇〇を見た」「〇〇を食べた」という、暗さの欠片が一ミリも挟む余地のない会話をして、ただその時間を楽しく過ごす。毎日繰り広げられるほんの数十分間は、お互いの胸の内をお菓子の包み紙にそっと包んで、ゲラゲラ笑いながらポリポリ食べているような、あたりさわりのない時間。そんなささやかな瞬間から、どんなプレゼントにもまけない優しさをいただいている。私も彼女のように、優しくなりたいなと思う。
 
私は誰の事も救えないし、たとえ神様仏様であろうと私の事は救えない。
それでも、彼女がくれるスーベニア的な優しさは、ドロ沼にハマりがちの私をふわりと掬い上げてくれる。
それは、旅先のどこのお土産売り場でも買うことができて、食べやすく、特にめちゃくちゃ美味しかったり高価だったりすることのない、チープな甘さやしょっぱさの、オーソドックスなお土産のような思いやりだ。
 
春の歌は、愛や希望よりも前に響くらしい。愛や希望を作り出すことも出来るらしい。
 
この冬過ごした何気ない時間の中から、私は沢山のスーベニアを貰っていたことに気が付いた。
浅いプールでじゃれるような、小さな幸せをつなぎあわせて生きていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?