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クリスマスは少し切ない

クリスマスがやってくる。

クリスマスは子どもの頃を思い出してしまう。

めちゃくちゃ好きだった訳では無い。だけど、クリスマスは楽しかった。ツリーを出すのも、サンタさんにプレゼントをお願いするのも、シャンメリーを空けるのも好きだった。クリスマスは、その年の気分で毎年やる事が違うのが良かった。母がシチューのパイ包みを焼いてくれる年もあれば、ちょっとクリスマスっぽい普通のご飯の時も。その時にできる範囲でやりたい事をやるという、単純に楽しむためのものという感じが良かった。

成長とともに家庭のクリスマスはシンプルかつ省エネになっていった。何もしない年があっても、それでもちゃんと楽しかった。幼い頃にやれツリーを出しリースを飾り、ワイワイ楽しんだ記憶があったからだと思う。


クリスマスといえば1番に思い出すのが、子どもの頃に習っていた英語教室のクリスマスパーティーだ。英語の先生がクリスチャンだったため、それはそれは盛大で楽しかった。先生は豪快かつ子どもを喜ばせる事に命をかけていたため、教会から宣教師(外国人)を呼び、サンタの仮装をさせ、プレゼントを配らせるのが毎年恒例だった。宣教師が2人の時は、2人ともサンタになってくれた。今思えばそれだけで、何と豊かなクリスマスだっただろう。


ご飯は各家庭からご馳走を持ち寄るのが決まりだった。これも今思えばなんて贅沢な!!

共働き家庭が増えた今では、スーパーのオードブルを持ってくる人も増えたらしいけど(それでも全然良い)、私の時代は各家庭手作りのご飯を持たせてくれていた。最高じゃん。私のクリスマスの思い出は、外国人が演じる何人ものサンタさんと、母やほかのお母さんたちの作った数々のご馳走でできている。


先生はクリスマスに関係なく、食事をする時に毎回神さまに祈っていた。私にはキリスト教はかなり身近だったし、「アーメン」は「いただきます」なんだろうなあという位にしか思っていなかった。クリスマスはイエス・キリストが産まれた日。ツリーやリース、ヒイラギの飾り、プディングやシュトーレンなどのお菓子、クリスマスらしさを構成する数々のアイテムに、ちゃんと文化と歴史があるということも、子どもの頃から知っていた。知識として知らされたというより、肌で感じながら育った。各家庭のご馳走が違うように、色々な家があるという事、いただきますがアーメンな人もいるという事。多様性だなんて言う人は誰もいなかった90年代に、私は溢れんばかりの多様性の渦に揉まれて育った。ラッキーだった。いろんな人がいるという当たり前の事が、当たり前の環境で育つ事ができて。


大人になってびっくりしたのは、信仰というものを毛嫌いする人がいるという事、クリスマスはキリストの誕生日だと知らない人がいるという事、サンタが来ない家もあるという事。

母親が毎年超本格的な七面鳥やクリスマスケーキを焼き、そもそも普段から失敗したご飯や適当な食事を知らない人がいるという事。

いろんな人がいるという事を知っていたつもりだったけど、自分の育った環境や価値観と全くダブらない、暮らしの角度を変えなければ知ることもなかった“いろんな”がある。その事を知ってから、クリスマスは少しだけ切ない。


クリスマスが切なくなってから、長い事楽しむ事が出来なかったけれど、一昨年ようやくツリーを買い、昨年は我流クリスマスケーキを焼き、今年はリースを飾りシュトーレンを焼いた。自分のペースを取り戻してから、クリスマスが俄然楽しみになった。息子に私の子ども時代のような愉快なクリスマスを提供できるかはわからない。(なんせあの英語の先生のような愛に溢れた大人はなかなかいない)だけどまあ、自分なりに、愉快に楽しくほのぼのと過ごせたらいいなと思う。子ども時代の楽しさは人生の楽しさだと思うから。

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