SNSが盛んな現代における”個”とは

昨今SNSによりクリエイティブな世界は飽和にあると思っている。
写真や動画、音楽に映像、おもしろ動画もモデルもカメラマンも、可視化出来るような媒体がある物に関しては全てと言っていいと思う。
飽和にあると考えているのは、個人の機材とも呼べない代物でも所謂バズが生じる可能性があるのだから、金なんて無くてもアイディアがあれば個人だろうが団体だろうが企業だろうが関係ないわけだ。

人の数だけクリエイティブがあると言っても過言じゃないと思ってる。
そんな中有名になりたい、何かで認められたい、届けたいという人は多いだろう。

こうなると、どうやったら有名になるのか、認知されるのかという流れになると思う。
Twitterで話していた内容の延長線上だが改めて。
売れている物を真似する、それは日本やアジアだけじゃなくて、世界中でそうやって模倣が起きている。どのシーンにおいても。
質の高さによるが、まったく関りの無い自分を知らない人に既視感を与えてすんなりと心に入り込むには模倣が効果的なのだ。だからこそ頭をよぎるだろう。

しかし、それは自己の確立とは程遠い行為であると思っている。
誰しもがやれることは、やはり誰しもがやれるのだ。

それが悪とは思わないが、この先同じ状態が通用する時代のまま進むと思えない。
SNSが盛んになればなるほど情報過多となる。
みんなが知っているものでなくても、みんなが受け入れている物でなくても、
自分が楽しめればそれで満足。という時代に差し掛かっていると思う。

じゃあどうやって自分を認知させるのかという話だが

ネットで簡単に世界に飛び出せるわけだ。
80億人のうちのネットユーザー1000人に見られる事を多いと思うか少ないと思うかは自由だけど。
模倣なんてしなくてもそこに需要はあるわけで、
だからこそどうするべきかってのは自分が思ったことをずっと続けて認知させる事が重要なんじゃないかと思う。

当然そこには数多くの需要に応えることになる場合もあるだろうし、少ない数の場合もある。
が、それは 自分 対 80億人 と考えていいと思う。

隣の誰かに対して何かを見せているという意識や、
日本人に対してアプローチをする ということ自体あまりにも小さい規模だと思っていいとおもう。
これだけ世界に広げられるチャンスがあるのにも関わらず、
わざわざ自分の個性を磨かずに他人に乗っかって、それが”あなた”として認識され、それが長く続くと思うかと問いたい。

隣のあの子は可愛いかもしれない、隣のあの人は歌が上手いかもしれない。
でも自分にもし何か可能性があるのなら、隣ではなくて自分をちゃんと見つめて自分の持っている物を磨き続けて夢が広がるんじゃないかと思う。
誰も何もしらない自分の何かを、誰かに受け止めてもらうにはひたすら続けるしかない。
反応がないからとすぐにふらふらと、自分の信念を曲げて近道をするのは結果的に何も残らないと思った方が良い。
その場は良くても何も残らない。

SNSに溢れた個に埋もれたくないのならもっと尖っていかなければならない。

と、自分にも改めて言い聞かせるようにキーボードを叩いておきました。

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