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仙丈ヶ岳

山を訪れる理由は十人十色。自分にとって仙丈ケ岳は竹澤長衛との対話であり、深田久弥さんが南アルプスで一番好きという理由を確かめるためだった。

仙丈ケ岳は、「仙丈岳」とも呼ばれる。山に「ケ」を付けるのは好きでないが、この山は例外。「センジョウガタケ」という響きが良く似合い、一万尺を超える高峰とともに女性的な山容と品格を持つ。

深夜0時30分、先輩がテントを持って新宿まで来てくれた。2時30分、甲府に入ると煮干しラーメンで夜食を満たす。抜群の美味さではあったが経験上、山に登る前のラーメンは体を重くする。ラーメンは登山後のご褒美に限る。

3時30分頃、芦安駐車場へ。所狭しと車が軒を連ね、第4駐車場のわずかのスペースに停車。5時始発の乗合バスを待つクライマーは100人では済まず、満員電車を待つサラリーマンのようだ。

南アルプスの寒さでレインウェアを羽織るが、それ以上に眼に映る光景に、登る気力をすっかり失ってしまった。お弁当や温かいコーヒーを売る女性もいる。まるでディズニーランドの売店だ。山とは思えない。

5時15分のバスに乗ると広河原までの1時間、完全に記憶を失う。1200円を払ったことしか覚えていない。6時過ぎに広河原に着くとすっかり夜が明けていた。この時点で戦意喪失しているのに、追い討ちをかけるように3台の大型バスが甲府駅からやってくる。もはやゾンビ電車に潰されるサラリーマン。1000円で北沢峠までの切符を買い、30分間バスに揺られた。

7時に登山を開始するときは、すでに登頂を終えたかの疲労感に襲われる。ここから頂上まで4時間もある。先輩を先登に竹沢長衛が開拓した樹林帯を進む。このとき、異変が起こった。2週間前、自転車でガードレールに突っ込んだ時と同じく、暑さで頭がやられた。気付いたときには足を踏み外し、藪の下へ体が投げ出される。初めて経験する滑落。これが崖なら命はなかった。

幸いウェアは破れず擦り傷と上腕三頭筋の負傷だけで済んだ。滑落の代償としては幸運としか言いようがない。悪運の強さは結構だが、夏への耐久力もなくなり、弾丸登山の無理が許される年齢ではなくなってきている。

途中、竹澤長衛が最後に立てた藪沢小屋に寄る。転落がなければ感慨深いものになっただろう。ここでは夏山待望の湧き水があり、南アルプスの天然水を味わえる。

樹林を抜けると、仙丈のカールが顔を出す。切れたった岩場の鋭さとは反対に、どこか優しさを感じるのは南アルプスの女王と言われるゆえんだろう。

尾根を進み、10時過ぎに登頂。4時間のコースタイムのところを3時間。まずまずのペースだ。


頂上からは富士山、北岳、間ノ岳の標高スリートップが並び立つ。北岳の迫力はさすが。

帽子をかぶっていたら、この山の個性と品格に脱帽していただろう。

下りは甲斐駒を見ながらの下山。黒戸尾根は見えなくとも、日本を代表する風格がそびえる。3時間、登りと同じタイムを費やし、13時過ぎに北沢峠へ。ここから1時間半のバスはキツかった。帰りに寄った芦安温泉の岩園館が救い。

スポーツ観戦は観客の熱気が上昇気流となるが、登山においての喧騒は自然との対話を破壊してしまう。仙丈ヶ岳と対話するには冬に来なければいけない。

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