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『ランボー/ラストブラッド』

シリーズ第1作『First Blood』の原題を、日本は『ランボー』と人物名のタイトルで上映した。

5作目の『ランボー/ラスト・ブラッド』はシリーズ完結篇であり、いよいよランボーとは何者なのか?を定義するタイミングである。

ミャンマーから故郷アリゾナの牧場へ帰ったジョン・ランボー。ベトナム戦争の後遺症に苦悩しながらもボランティアで山岳救助をしている。これまで無数の人間を殺してきた贖罪なのだろう。

序盤、鉄砲水によって3人のうち2人が山で命を落とす。この濁流はランボーの止めようもない運命。誰かを守るのではなく、殺戮マシーンでしか生きられないという宿命の暗示でもある。

現代の映画はハッピーエンドでないと観客動員が見込めないが、ランボーは映画界の常識にアーミーナイフを突き刺す。売春組織に拉致された友人の孫娘も無惨な最期を迎える。結局、ランボーは救出ではなく復讐でしか解決に向かえない。『ラストブラッド』のタイトルには「もう戦争はやめよう」という願望があるが、自身が戦争を終わらせる気などない。ランボーの故郷はアリゾナではなく戦場。PTSDに苦しみながら地上では生活せず、自らが掘った地下のトンネルで生活するが、それも自ら爆破。最後まで人生の出口を作ることはできなかった。

ランボーにとって、人を殺すことが唯一の「射精」である。ランボーに女っ気や性的な匂いがないのは、そのためだ。現代に似つかわしくないコンバット・ボウはランボーが放つ精子。戦争によって自らを苦しめ、同時に刹那のカタルシスを与える殺人地獄は終わらない。

そんな自我の解放があっても良い。ランボーを見ていると不思議とそんなふうに思えてくる。現実の世界でも男女問わずランボーのような人間は多く存在する。バイオレンスな映像や素手で殴り合う残酷な結末の格闘技にカタルシスを覚える者だっている。その人の苦しみは他者には分からない。

ランボーが構えるコンバットボウは、世の中に向けて放つ”多様性の矢”でもあるのだ。

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