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山小屋の憩い:介山荘

山はそれだけで日常から抜け出せるが、不便な山小屋はもっと非日常を演出してくれる。都会に住んでいれば尚更だ。

毎年、山小屋のお世話になっていたが、去年は一度も泊まらなかった。今の会社に転職して山に行く回数も少なかったこともある。その分、今年は失われた時を取り戻そうと、山に気合を入れている。

山小屋の最大の楽しみは一期一会。7年間で13の小屋に泊まっているが、リピートはない。だから聖なる一回性の風景や会話をハッキリ覚えている。高齢者のクライマーとの出会いが多いが、今もそれぞれの山を続けているに違いない。

令和三年の2月27日にお世話になった『介山荘』は、その勇ましい名前に惹かれた。もちろん小説『大菩薩峠』の生みの親・中里介山から冠した。大菩薩峠は日帰りが通常だが、どんな小屋なのか味わいたかった。

昭和39年(1964年)、東京オリンピックの年に建てられた介山荘は、山小屋の中では歴史が新しい。部屋にはコンセントもある。本当は正面に富士山が見える高台に建てたかったそうだが、強風で倒れるため断念。

木々に覆われた標高1,897米の位置にあるが、現在の建築技術なら強風にも耐えられるらしい。もっと繁盛して、ぜひ建て替えて欲しいものだ。

今でも十分ステキな介山荘は、12室あり収容は40人。外に公衆トイレもあるが、宿泊客は小屋内の清潔なトイレを利用できる。真冬の夜、凍えながらヘッドランプを灯して外に出ずに済むのは大きい。

小屋に着いた11時はまだ準備中で、2代目のご主人・益田真一さんがその日の支度をされていた。

宿泊は13時からなので、それまで『牛奥ノ雁ヶ腹摺山』まで行ってきますと伝えると「かなり距離がありますが大丈夫ですか?」と心配してくださった。

15時過ぎに介山荘に戻ってきたときは「すごいスピードだ!」と褒めてくださる。山のプロからお墨付きをもらえるのは格別だ。益田さんは屈強な山男の匂いがなく、心から接客が好きな旅館の主人のオーラがある。

この日の宿泊客は全部で6人。都内から来たカップル、愛知県の日間賀島(ひまかじま)から来た年配の男女3人だけ。おかげで個室を占領できた。洗濯したてのようなフカフカで清潔な布団が気持ちいい。

暖房はないが、部屋の目の前が食堂で温かいお茶とストーブがある。歓迎の印として介山荘のオリジナル煎餅がテーブルにあった。ありがたく頂き、日の入りの18時20分まで一眠り。

偶然この日は満月。アメリカでは「Snow Moon」と言うらしい。2月の介山荘にピッタリだ。大菩薩峠は新宿から登山口まで3時間でアクセスでき、登山道も緩やかなので日帰りが多い。しかし、日本屈指の山岳展望を誇る峠の真価は朝夕の景観にある。

東に満月を望みながら、西の空には夕焼けに染まる富士山と間ノ岳に沈んでいく落日のサンセット。豪華饗宴を観劇できるのも介山荘があるからこそ。しかし、これもまだ序の口。翌朝がメインイベントだ。

部屋に戻ると夕食が用意されていた。人数が少ないから奥様のヘルプは無しでご主人が手料理を振舞う。マカロニサラダや椎茸など、どこにでもあるメニューだが、自家製の野菜や漬物がやさしい。四駆の車で上がってこられるから食材が新鮮なのだろう。歓待の印であるサービスの白ワインがまた格別。山は葡萄酒か日本酒。清められる。

たまに料理の美味しい山小屋に出会うが、介山荘の味はトップクラス。山ミシュランを作るなら間違いなく3つ星だ。

ご主人が宿泊客に「どんどんカレーのお代わりしてください」と売り込む。この人は本当に接客が好きで、山とクライマーを愛している。言われなくても大盛り、普通盛り、小盛りと3回お代わりした。うどんの日もあるらしいが、やはり山小屋はカレーに尽きる。

食後の憩いのとき、ご主人が中里介山の直筆の書を教えてくれた。意味は「山の上では身分の隔たりがあってはいけない」

これだ。山小屋を好きな理由は。ここでは全員が同じ飯を食べる。金持ちも偉いさんも、子供もお年寄りも関係ない。全員が平等なクライマー。世間や社会の身分は関係ないことを山小屋は教えてくれる。

この夜はマイナス9℃まで下がったが、風がないから暖かく感じる。ご主人によると、今年は全く雪が降らず、雪解け水が得られない。このままでは3月は深刻な水不足に陥ってしまうらしく何度も「雪を降らせてください」と願っていた。温暖化によって素晴らしい文化が失われつつあるかもしれない。

2年ぶりくらいに19時に眠りに落ちる。早寝早起き、これが人間にとっていちばんの贅沢かもしれない。

夜明け前の5時半に起き、少し高台に登る。マイナス4℃だが、やはり風がないから寒さを感じない。今度は南アルプスの空に満月が浮かんでいる。

6時過ぎに日が昇ってきた。山を登るクライマーを祝福してくれる。

ご来光で富士山が朝焼けに染まる。朝日と満月、富士山と南アルプス。すべてが同時に眼中に収まる聖域が他にあるだろうか?

これが日出る国ニッポンの底力だ。

部屋に戻り、岩魚と自家製野菜の朝ご飯。パワーを充電し、一番乗りで大菩薩嶺に向かう。わずか1日で多くのことを吸収させてくれた。スピードがあれば山の高さは征服できるが、それでは山の深さは置き去りになってしまう。

出発するとき、雲ひとつない大菩薩ブルーの蒼天が広がっていた。スピードは両親から授かった刀なので磨き続ける。ただし、できる限り山で一夜を過ごしたい。ゆっくり腰を落ち着け、これからは立ち止まって山と対話する。そこに山小屋があるから。

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