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雁坂峠

峠の魅力は、その先に何が見えるのだろうと、空想と妄想を掻き立ててくれることだ。

雁坂峠(かりさかとうげ)は、『日本書紀』に登場することから”日本最古の峠道”とされる。古代にはヤマトタケル、大正・昭和には深田久弥さんが4度も越えた。

標高2082m。山名は雁の群れが山道を越えたことに由来し、埼玉(武州)と山梨(甲州)の境にある。雁坂嶺や水晶山など周辺にいくつもの峰々を従え、互いの国を見せまいと昔日より人々の前に立ちはだかった。

1998年に有料の140号線ができるまで開かずの国道であったから、通せん坊の歴史は古い。

雁坂峠への憧れを強くしたのは、明治に書かれた幸田露伴の『雁坂越』。叔母のDVに耐えきれずに家を飛び出した13歳の源三が、3度目の正直にして雁坂峠を越え、その先に希望の都・武蔵(東京)を望む。

源三が東京で奉公をしたのか、頂上から故郷へ引き返したかは描かれていない。それでも自分を超える『雁坂越』は登山の深淵を教えてくれる。

令和元年の11月22日(金)、有給を取り、埼玉に住む先輩と雁坂峠に向かった。10月に登る予定だったが、台風19号ハギビスの影響で国道140号線が封鎖され、今回がリベンジ。

雁坂トンネルを抜けると料金所(760円)のゲートがあり、すぐ側が山梨側の登山口。雨燦々、気温は3℃。予報では午後からの雨だったが、止む気配どころか、勢いは強くなる。

数年前なら中止をしていところだが、登山4年目を迎えて「とりあえず登れる所までは行ってみよう」という余裕が生まれていた。

振り返って孤高の駐車場を見返すと、日本の山麓でこれほど美しい風景はないと思えてくる。誰も登らないからこそ、俺がそこにいる。

雁坂峠の最初はアスファルトの車道。先ほど抜けてきた雁坂トンネルの真上をゆく。先登を行く先輩のペースが異常に速い。いつもは自分がゆっくり歩かなければいけないが、地元・秩父の山になると先輩の足は勢いを増す。

30分も歩くと本格的な山道へ。落葉によって方向が分りにくいが、これぞ晩秋の登山という感を強くしてくれる。

甲州からの雁坂越えは、沢沿いの登山。唐松尾沢、久渡沢、峠沢、井戸沢と、いくつもの沢を渡渉する。

これらの沢は広瀬湖の水となり、やがて笛吹川の流れになる。『雁坂越』の主人公・源三が住んでいたのが、まさに笛吹川の上流だ。

遭難癖のある自分は山とGPSを使っても道を失う。先輩とのタンデムでなければ、あと1時以上は彷徨っていただろう。一方の先輩は、紙地図だけなのに的確に現在地を把握する。

雁坂峠の名物?鹿の骨を過ぎると、ブナ林が顔を出し、草地の稜線へと出る。この草地をジグザグの雷光形に登っていくと、そこに雁坂峠の絶頂が待っている。

先輩はどこか嬉しそうだ。雨中の登山も悪くない。「明日は晴れる」と言えるから。

スタートから2時間半、ついに雁坂峠の絶頂に達した。すると、無風だった頬に肌寒い雨交じりの風が吹き付ける。それはまさに、蓬々と吹く天の風が『雁坂越』の主人公・源三を躍り上がって悦ばせた風だった。

濃霧のため見えないが、目の前には武蔵の国。
源三が朝晩、雁坂峠を見ては「峠さえ越えてしまえば、極楽が待っている」と願い続けた思いの丈が憑依してくる。写真を撮った後は、10分ほど下った雁坂小屋へ。

無人と思っていたが、ご主人がおり「こんな雨の中、来たのか!?」と驚かれてしまった。「少し休憩させてくれませんか」と頼むと、「休憩料もらうよ。あんまり濡らすなよ」とぶっきらぼうに言われ、コンビニで買った行動食を腹に入れる。

汗をかいた上に雨に打たれたレインウェアも濡れ、ガタガタと身体が震える。小屋の窓から覗くと雨も勢いを増してきた。これ以上、水量が増えたら沢の渡渉が危険。10分も経たないうちに小屋を後にした。

雁坂小屋の娘さんだろうか?ちょうど歩荷で上がってきたばかりだった。綺麗な人で山の人間とは思えない。都会っ子といった印象がある。

休憩料を払おうとすると、奥にいた主人が「もう帰るのか。じゃあ、お金はいらないよ」と言われる。「いや、ほんの気持ちなので」と千円札を渡そうとすると「いいよ!それより気をつけて帰れよ!」と優しく受け取りを拒否。

クライマーを金や物にしか見ていない山小屋もあるが、ここは山に来た者を守るために営業しているのだろう。数少ない本物の山小屋に出会えた。

無事に下山した後は、登山口にある熊王大権現の社に御礼。往復5時間、コースタイムは6時間半だが思ったより時間がかかってしまった。凍えた身体に暖をとるため、すぐに大滝温泉に向かって昼食。

大滝村は、源三が雁坂峠を越えて目指した村。何という偶然だろう。憧れの雁坂峠を越え、雁坂小屋の優しさに出会え、感無量の登頂の儀。

次は埼玉側から雁坂峠を越える秩父往還が待っている。

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