神社の庭園
日本の庭園はまったく独自の進化を遂げてきた。限られた空間に自然を再現するのが東アジアの庭園の特徴だが、日本ではそれを石組みで表す枯山水が独自に発達した。庭は単に愛でるだけでなく、見て考えるものでもあり、大名屋敷などではもてなすための庭が、寺院では瞑想するための庭が発達した。一方で、神社については、長らく庭園の存在が知られてこなかった。
神社に庭園がまったくないわけではないが、多くは社務所等に伴う庭園で、滋賀県多賀大社の例が知られる。それ以外では鏡池が挙げられる。鏡池とは神域内に配された池のことで、中島を伴うものが多い。ただ、『日本庭園史大系』はこれらを積極的に庭園として取り上げているが、庭園と見なしてよいかどうかやや疑問である。単に池があるだけでなく、社殿を荘厳する意図があれば庭園と見なしていいと思う。
その神社庭園だが、滋賀県野洲市にある兵主大社庭園は、従来の庭園観を覆すものだった。兵主大社の庭園は古くから知られていたが、社家の屋敷に伴う庭園と考えられていた。ところが、整備に伴って発掘調査と地中レーダー探査を行ったところ、社殿を取り巻くように苑池が巡らされていたことがわかったのである。この調査によって、社殿が旧位置を保って修造されていることもわかった。寺院における浄土式庭園のような、池で建物を荘厳するタイプの庭園が神社にもあったのである。出土遺物から、作庭時期は平安時代と考えられた。
野洲市にはもう一例、神社庭園がある。兵主大社の末社に二之宮神社という神社があり、現在は比利多神社と境内を共有している。伝承によると、比利多神社は近隣の比留田集落から遷座してきたという。この神社の境内には無数の溝の痕跡があり、旧中主町(野洲町と中主町が合併して野洲市になった)が測量調査と発掘調査を行ったところ、庭園の可能性が高くなった。遺構は主に中島と溝(水路)で、溝は現在の社殿をコの字型に囲むように配されていた。出土遺物から築造は平安時代頃と推定され、溝の配置からこの時点で現在と同じ社殿配置と考えられた。
滋賀県内には庭園を伴う神社が多く、一例として阿自岐神社は自然の湧水を利用して社殿の周囲に苑池を作っている。兵主大社の庭園とよく似ている。
今回は神社の庭園、特に、社殿を荘厳するタイプの庭園の事例を紹介した。神社庭園はほとんど研究の俎上に載っておらず、新規開拓の余地が充分ある。『日本庭園史大系』の時代比定は曖昧な部分が多く、神社庭園(鏡池を含む)の詳細な調査(発掘調査含む)が待たれる。
付記
筆者は一時、滋賀県野洲市に奉職しており、これらの庭園の調査記録に直接触れることができた。
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