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民俗学小話集⑦

【廟山鳴動】
藤原鎌足を祀る談山神社の裏山を御破裂山といい、鎌足の墓(実際は不比等の墓か?)がある。この山は藤原本宗家に何か災いがありそうなときに鳴動したという。この時、鳴動を聞くポイントが3箇所あり、それを「立ち聞きの芝」と言った。鳴動があると藤原氏の氏長者に使者が立てられ、同時に別当が精進潔斎を行って廟の神像を確認した。この時、神像にヒビが入っていると(御破裂)より強い災いがある証とされた。これが御破裂山の名の由来である。不思議なことに、神像のヒビは祈祷が行われると跡形もなく消えるという。
源満仲の廟がある多田院(多田神社)も同様に鳴動したという。
鳴動というと、よく知られているのが京都東山の将軍塚。桓武天皇が平安京鎮護のために埴製の武将像を埋めたとされ、一説では坂上田村麻呂の墓ともいう。現在は青蓮院門跡の飛地境内になっている。坂上田村麻呂と関連するからか、田村麻呂が創建した清水寺に災いがあると鳴動したという。

【湯殿山行人と土中入定】
土中入定は即身仏になる修行の最終段階で、湯殿山系即身仏の多くは土中入定伝説を持つ。ただ、前近代において入定墓の存在が伝承されているのは本明海上人だけである(入定墓は現存しない)。また、湯殿山系即身仏のうち、初期の淳海上人(焼失)や全海上人は地上入場であり、鉄門海上人は没後に信者の手で即身仏にされたという。ただ、最後の即身仏となった仏海上人は生前に入定墓を用意していて、日本ミイラ研究グループの調査では環境が整っていれば遺体がミイラ化した可能性があると指摘されている(仏海上人は入滅後に入定墓へ埋葬されたが、湿気がこもらないよう気を付けて設計されていたらしく、棺に詰められたおが屑が湿気を吸わなければ遺体はミイラ化していたらしい。おが屑のせいで遺体は大部分が白骨化していた)
そのことから、即身仏になるための特殊な構造の墓が湯殿山行者の間で伝承されていたことがわかる。この入定墓は現在も元のまま保存されている。

【妙心法師の即身仏について】
岐阜県横蔵寺には富士信仰の行者であった妙心法師の即身仏が祀られている。妙心法師は横倉の出身で、富士山の鬼門にあたる御正体山で断食入定した。遺体はそのまま御正体山に祀られていたが、神仏分離で降ろされ、山梨県庁、次いで甲府の病院が保管していた。その後、事情を知った当時の横蔵寺住職が帰郷運動を行い横蔵寺の所蔵となる。
妙心法師の即身仏は一度学術調査を受けており、その後の再調査は横蔵寺が断っているという。この学術調査の詳細が長らくわからなかったが、最近、『美濃のミイラ信仰』という論文を読んで詳細がわかった。この調査の報告が公刊されていないのが混乱の原因だが、この調査を実施したのは名古屋大学の医学部で、当時、断片的な調査結果がプレスリリースされたものの、医学部の引っ越しなどイベントが重なり、正式な報告が行われないまま現在に至るらしい。これは非常にもったいない話で、今からでも(不完全でもいいので)調査結果の報告を望みたい。

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