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遺跡動態の捉え方

自治体史などでは特定の市区町村の歴史を記述する関係上、遺跡の動向をその自治体内で完結させている場合も多い。しかし、郡単位や水系で遺跡の動向を捉えないと遺跡の集中する地域が自治体内で極端に離れている場合など、説明しづらい場合がある。以下、思うところを書いてみる。
市町村史編纂の過程で、遺跡分布から先史〜古代の状況を語ることは多いと思う。ただ、市町村史は各市町村の歴史を現在の行政区画に沿ってまとめるのが目的なので、個人的に視野狭窄に陥りやすいのではないかと懸念する。

遺跡の動態は水系と旧郡界を見よ

例えば、ある市の北端と南端に古墳群があり、北端の古墳群には隣接して別の古墳群があるとしよう(この古墳群は隣の市にある)。この場合、仮に南の古墳群が古墳時代前期と後期で北の古墳群が古墳時代中期とすると、つい「南の古墳群は一時衰退し、北の古墳群の勢力に取って代わられる。その後、再び南の古墳群が勢力を盛り返した」というような説明になると思う。しかし、北の古墳群と、それに隣接する隣の市の古墳群で共通する遺物が出ていたらどうだろう。北の古墳群は隣接する隣の市の古墳群と同勢力が築造したものと捉えるべきではないか?
ここで問題になるのが、律令期の郡の境界がどこにあったかである。律令期の郡はそれ以前の豪族(後の郡司)の勢力範囲をある程度踏襲していると思われるので、古墳時代の勢力図を描くときの参考になる。この郡境界は必ずしも現在の郡・市の境界と一致するわけではなく、上記の例の場合、北の古墳群は本来隣の群に含まれていた可能性もあるわけである。文献調査で北の古墳群が隣の郡に含まれることが判明した場合、同じ市内であっても南の古墳群と北の古墳群を繋げて解釈するのは誤りということになろう。
市町村史は現在の市町村の行政区画内の歴史をまとめる作業だが、視野は前近代の行政区画を意識しなければならないのである。


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