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山に住むこと、山で働くこと

※少し長めの文章になります。お時間ある時にでも

この時期になると、どうしても山小屋で働いていた時の事を思い出す。
きっと生涯、何度も、ことある毎に思い出すであろう大切な記憶だ。

偶に会話の中で、以前山小屋で働いていたと言うと、好奇心でどんな感じだったかを聞かれる事がある。
「良かったよ、楽しいことも、つらかったことも含めて、多分一生忘れないと思う」
そんな当たり障りのない返しが殆どだが、偶に山で働きたいと密かに思っている人が前のめりになって詳しく聞かせて欲しいと言う。

そういった人に対して上手く伝えられないことも歯痒く思っていたので、思い出しついでというか、これを機に自分の山での暮らしを忘れないように書いてみたい。
何分全てを伝えることは難しく、また働く場所やタイミング、期間によって様々ではあるし、あくまで個人の主観なので、なんとなくの雰囲気だけでも伝われば良いと思いながら。

1.山小屋へ

数年ほど前になる、仕事を辞めてフリーとして働きだし、登山を続けるうちにどうしても山で働いてみたくなった。
山に対する言葉に出来ない何かを探していたのかもしれない。

働く場所についてはインクノットという山バイトの情報を発信しているHPで探した。
電話で話をして、履歴書を送り、何度かやり取りをして、働くことが決まり、仕事をしながら準備を始めた。
丹沢主脈縦走(蛭ヶ岳~塔ノ岳を経て大倉尾根から降りるルート)、奥多摩から雲取山へ登ったり、出来る範囲の体力づくりを春ごろから始め、5月には荷物をまとめて段ボールで送った。(この荷物はヘリで荷揚げしてもらうためだ)
7月に最寄りの駅まで始発のあずさ~在来線と乗り継いで、待ち合わせの駅へ到着した。
本来なら2週間ほど後の予定だったが、学校行事の団体登山が来るというので、予定が前倒しとなったのだ。

駅まで迎えの人が来てくれ、軽トラで登山口まで送ってくれた。後に社長だと知ったのだが、この時は現地スタッフくらいに思っていて、車内では普段の仕事の話とか、今年の残雪、まだ上には雪があるなどという話をしていたと思う。本当はもっと山の上で過ごしたいが、昔ほど頻繁に上に居られないのだとも。
既に先行で長期スタッフは小屋に上がっているらしく、自分はなんとも中途半端ではあるが、一週ほど遅れて一人での出勤となった。

登り始めは昼頃だったか、二時間ほど登った辺りで学生達の集団を追い越した。
道中、先行した小屋のスタッフが雪を切って道を作ってくれていたのだが、気温もあって緩んでいた。
軽アイゼンを履こうか迷ったが、数メートルだし、慎重に行けばそこまでの危険はないだろうと思いそのまま通過した。

2.働き始め

小屋まで着くと、荷揚げして貰っていた段ボールを確認し、休憩しながら荷解きをして、その日は夕方から早速業務に加わった。
夕食の盛り付け配膳、片付け、給水、後片付け、スタッフの食事、洗い物をしたり諸々。
いきなりだったので説明は特になく、何をしてよいか分からなかったのだが、他のスタッフに聞いてもまだ来たばかりで良く分からないというので見よう見まねで動いた。多分今シーズン始まって初めての大人数の受け入れで色々バタついていたのもあったのだろう。

翌日、天気があまりよくないため、学生たちはもう一泊同じ場所に泊まる事となった。
本来なら別の山小屋に移動予定だったが、小雨でガスって風も出ている状態だったので安全策をとったのかもしれない。
他の登山客はいなかったので殆ど学生達の対応だったが、不慣れな中、人数も人数だったので、食事などもなかなかに賑やかで大変だった。
その後、学生や先生たちを見送り、ようやく平常に戻った。
布団のたたみ方とか、食事の基本的な配置、盛り付けなど色々教わりつつ過ごしていると、自分は別の小屋へと移動となった事を知らされた。いくつかグループ的な山小屋を管理している所で働くと偶にあるらしい。

次の日には荷物を背負い、別の小屋へ移動する。一人ベテランのスタッフがついてきてくれた。二時間掛からないくらいだったか、稜線を歩き、いくつかピークを越えていく道は、シーズン中何度も歩くことになるが、山々はとても素晴らしい景色で、いつ何度見ても飽きなかった。

到着したその小屋で、小屋閉めまでシーズンを過ごすことになる。
最初はお客さんが少なかった、地上はすっかり夏だったが、まだ北アルプスは夏山のシーズンが本格的には始まる前。
山の上では雪解けが進む春から夏変わっていく最中だった。

つるはしというものがまだ現役で存在したのだなと思いつつ、背中に括り、シャベルを持って稜線上の登山道に残っている雪を切り、整えて道を作り、階段を作ったり道を作ったりした。雪が少ない場所は崩して夏道を出すような形になるが、多い箇所はどうしても雪の上を歩いて貰う必要がある。
この雪道を作るのは楽しいが、短期間で溶けてしまうので、何人の人が通過したのかは分からない。こういった作業は筋肉痛祭りとなる。

3.避けられない筋肉痛

地上で普段の私は殆どの時間を椅子の上で過ごし、マウスとキーボード、あとペンタブくらいしか使わない生活を送っているので、肉体的には全く惰弱な生き物である。
唯一偶に登山をしているので足は多少鍛えられていたが、働き始めて最初は体力不足や普段使わない部分の筋肉痛に苛まれた。
最初に経験した何回転かする膨大な洗い物、清掃や、調理補助、野菜の皮剝きや擦り下ろしたりなど、腕や指を酷使するので、ことある毎に筋肉痛になった。100人分の大根おろしとか、人力でやらないよね普通。
上半身の背中、肩、腕、手、その指の一本一本が筋肉痛になった。
普段体を動かして働いている人ならまだしも、デスクワーク人間には圧倒的に体の筋肉という筋肉が動かし足りなかったのだろう。
この筋肉痛の期間は、とにかく修行だと思うしかなかった、実際諸々体が出来てくるまで2、3週間くらいは掛かったかもしれない。
某漫画の炭治郎の如く、自身を鼓舞し全身痛いけど我慢した。眠れない夜もあった。
でもこんな弱い自分でもなんとかなったので、殆どの人はなんとかなるんじゃないかな多分。

初めての歩荷時はなかなか苦しかった。背負子は肩に食い込むし背中も固くて痛い、呼吸も登りは標高もあって苦しく、一度おろすと大変なので立って休憩した、何故か胸のあたりが筋肉痛になった。
水場の為のホースを両肩と首を使って担ぎ下ろす作業なども筋肉痛になった。(普通のホースではなく、なんというか硬くて丈夫で重さもある、それが大型タイヤくらいの円形で纏められていて、手では持ちにくいので頭を輪に通して首と両肩で運ぶのが楽ではないが楽だった)
この水場作業は登山道ほど道がしっかりしているわけではないので、最初は刈り払いながら道を作り、小屋までパイプを繋ぐ作業やポンプアップするための発電機を移動させるのもかなりの難作業だった。
普段の山では登山靴を履いて登ったりしているが、この山小屋では殆どが作業用の長靴で作業をしていた。この長靴もそんなに歩きやすいものではないので、不慣れなうちは苦労したし、もっとしっかり選んで持っていけば良かったと後悔もした。

燃料のドラム缶は転がして運ぶが、倉庫に入れる際は立てて、半分浮かせながら運ばなければならない。これがコツを掴むまで最初はなかなか立て起こす事も難しかった。

筋肉の破壊と再生を繰り返しながら働いているうち、それまでの肉体とは別もののように、そこに必要な筋肉がつき、次第に適応していく。
最初はとても苦労していた事も、体ができあがるにつれ、当然のように出来るようになっていくのだと知った。

4.日々の暮らし

日常的な仕事としては、お客さんがいる時は朝食の準備が早番として交代制であった。
この早番だと、3時半~4時頃には起きて準備を始めたりする。(早番は途中で休憩が2~3時間ほどあった気がする)
寝起きしていたのは、山小屋とは別棟の倉庫のような建物の屋根裏だった。
ヘッドライトで梯子の階段を下りて、発電機を付けて外に出る。
晴れてる日はびっくりするほど星が沢山見えた。
ガス栓を開けて、ブレイカーを上げて厨房の電気を付ける。
お湯を沸かしたりお米を炊いたり朝食の準備を始める。前日の夜にある程度は準備は済ませてあるが、お客さんの人数次第ではなかなか慌ただしくなる。
食事の準備を済ませ朝食の準備が出来たことを伝えに行き、食堂で朝食が始まると、スタッフ用の朝ご飯を準備始め、食事が終わった食器等回収し、起きてきたスタッフの食事、少し休憩を挟みつつ、出発の見送り、その後に朝礼、食器等の洗い物後に館内の掃除が始まる。空き缶を潰したりも仕事だった。トイレ掃除は別枠で交代制だった。

毎日2回、お茶の時間が午前と午後にあった。午前は掃除の後、30分程お菓子を食べながらお茶を飲んで休憩する。
お客さんやOBの人なんかが差し入れでお菓子などを持って来てくれるのもあって、色んな地方のお菓子が食べられる事もあり、楽しみの一つだった。偶に別の山小屋から休みを使って遊びにくるスタッフがお茶の席に居たり、その時間もなんかとても良かった。

食事に関しては場所によってかなり違うと聞くが、小屋のオーナーや会社の社長の意向が強いと思う。シーズン中ヘリでの荷揚げでスタッフ用の食材もかなりたくさん揚げて貰える山小屋だった。冷凍のケーキもあった。嬉しい。
メインでキッチンを担当しているスタッフの料理は美味しかった。自分も偶に食事当番で苦労したが、食材を見て、レシピを検索し、作ったものを人に食べて貰うのは得難い経験だった。

昼御飯までは外作業をして、昼ご飯後は中で作業しつつ、喫茶の注文などをして、泊まりのお客さんの案内など、二度目のお茶休憩、夕食の準備を始める感じだった。お弁当の予約が入ってると夕食準備と併せてそちらも準備をした。消灯は21時位だったか。20時過ぎくらいから晩酌したりが多かった。

携帯の電波は小屋の中では基本繋がらなかった。
docomoなら繋がるが、それ以外は小屋の前、少し行ったところなら電波が拾えた。
テレビは外にアンテナを立てており、観ることは出来たが、NHKが殆どで、ニュースや天気予報が殆ど、常には付いていない。昼ご飯時に観る朝ドラが楽しみだった。お客さんが居ないときは食堂で見ていた。
風呂に関して、基本的に働く小屋次第なので確認はした方が良い。場所によっては毎日入れるところもある。
自分は3~4日に1回だった、大きな箱状の釜に水を移してバーナーで沸かすので簡単ではない、沸かした湯をバスタブに移して、水を入れつつ温度調整、交代で入るので、都度沸かした湯を入れて調整しつつだった。
風呂はやはり楽しみだったが、入浴翌日に歩荷で大汗をかくと非常に残念な気分にもなった。ボディーシートなどで体は拭くが風呂に入りたい。

休日は決して多くは無かったが、おにぎりを持って朝から出かけて、静かな山を歩き、山の上でぼんやり過ごす休みの日というのは、本当に価値あるものだった。
普段はやはり常に誰かと一緒にいる生活なので、小屋から離れて一人になる時間というのは必要な時間だった。
カメラも持って行っていたので、花や景色の写真を撮ったりもした。
山頂でぼーっと昼寝してたりすると偶に登山者に写真を頼まれ、話をする事もあった。

山岳パトロールの人が山域には居た。ずっと居るわけではないがエリアによって配置が決まっており、顔馴染みとなった。
山小屋スタッフも有事の際には捜索に加わったり、救護などする事もあるが、彼らが居るというのは心強い。
シーズン中は何度か自分が居た山小屋にも泊まって食事も共にした。
彼らも山に住んで働いていた。

4.夏シーズン本番

7月中旬から下旬に掛けて夏山シーズンが始まる。
自分が居た小屋は収容人数も二桁後半くらいで、スタッフの人数は多くは無かったが、それもあって色々な仕事をさせて貰えた。こまごまと語るのはとても長くなってしまうので、本当に色々だったと思って欲しい。
山小屋で優雅にゆったりと過ごしているような感じではなく、何かと常に作業をしていたと思う。人数が少ないのでいくらでも仕事はあった。
晴れたり曇ったりした日は外作業をメインで行い、天気の悪い雨の日は小屋内で作業をした。
少しだけ内容に触れると針仕事で酷く不格好な雑巾を拵えたり、空き缶をまとめる籠のようなものを作ったり、お客さんの翌日分の弁当を包装紙で包んだり、スタッフの食事を準備したりなど、外仕事も防腐剤を塗ったり、登山道にロープを張ったり、番線を使ったり、DIYもしないので使ったことが無いような道具を使っての作業だったり、今まで全く触れて来なかった様々な作業は不慣れな分出来が悪い事も多かったが、失敗しても笑って許してくれるような雰囲気があって挑戦できた。

夏の本番シーズンが始まると小屋を通過する人もかなり増え。作業よりも接客がメインになる。
稜線上にある山小屋なので、午前中でも通過時に軽食を食べたり、水を補給したり、トイレを利用する人が増える。喫茶でラーメンやカレーを作ったり、珈琲や紅茶を出したりした。
3週間ほどが兎に角忙しく、お客さんもかなり多かった。当時はコロナ以前だったため、予約無しの飛び込みのお客さんもソロでは結構居た。
この夏山シーズンが終わると気温もだんだん下がり始め、山は次第に夏から秋へと向かっていく。

台風や天気が凄く荒れている時はお客さんが来ない日もあり、そういう日は作業をゆるめにしてゆったり過ごす日もあった。普段できないような事、例えば廊下にワックス掛けたり天井裏の掃除などもした。

9月に入ると小屋閉めに向けてだんだん動き始める。
小屋閉めは他の小屋からも応援が来て賑やかになる、食事も他の小屋にドリンクと一緒に歩荷で移したりもするが、越冬出来る保存物以外はスタッフの食事で使い切ったりするので、お客さんに提供していた食事が結構朝夕に並ぶ。
窓に鉄板を固定していき最後は電気を付けないと真っ暗になるので、不思議な感じだった。
なかなか小屋閉めに立ち会う事は無いと思うが、もし山小屋で働くと決めた場合はぜひ経験してみてほしい。

5.下山

他のスタッフは別の山小屋で秋のシーズン後に下山する。殆どが何年も山小屋で働いているベテランスタッフだった。
自分は別の小屋で昼食を食べてその日は泊まって行っても良いと言われたが先に降りる事にした。送別会的な雰囲気になるのがなんだか気恥ずかしかったから。
登ってきた時も一人だったが、下山も一人だった。
あの頃に比べると余分な贅肉は落ち、驚くほど筋力と体力が付いたと思う。
凄い速度で下までくだり、社長が来るのを待った。
バスも勿論あるが、下山スタッフは迎えに来てくれて温泉と駅まで送ってくれる。来た時と同じ軽トラで迎えに来て貰い、お世話になった御礼を述べて、自分は別の登山口の方面に送って貰った。
某山小屋に予約をしていたので、長野から富山に抜けるつもりだった。
最後の風呂から1週間入っていなかったので、なかなか強烈だったと思うが、風呂付の某山荘を経て、登山をし、眺めていた対岸から働いていた山小屋を見た。
その後はようやく下山して帰宅した。

山小屋では生の新鮮な魚は食べられない。
山から降りての寿司は格別うまい。
また久しぶりに行くコンビニで何を買おうかと迷い途方に暮れた。

最後に

当時山で働いていた頃に比べると現在は体力も落ちたし、相変わらず仕事では夜型だし、健康とは対極の荒んだ生活をすることもある。
でも偶に自炊をしたり、ウイスキーを飲んだり、本当にふとした時に、あの生活を思い出す。
雲海の向こうから昇る朝日の眩しさ、屋根を打つ激しい雨音、誰もいないガスで真っ白の山頂、色々な人が通過したり泊まって、それを見送る朝の風景。今でも鮮明に焼き付いている景色は、多分山小屋で過ごした人だけの宝物のようなものだと思う。

東京で映像の仕事をしていなければ・・・、学生時代働いていたらどうなっただろうと考えなくはない。全く違う人生になったかもしれない。

山で働いている人は、山が中心にある人も多かった。体力的にもタフで、強い人が沢山いた。
一方で、余り登山はしないという人も居た。
山で働くと、その山域の植物や動物、危険な箇所など、より深くその山を知る事が出来る反面、他の山には登れなくなる。それは惜しいとも思ってしまった。

ぼんやりとしていた山で働いて生活する事が憧れから現実になった時、想像していた通りの事も違う事も楽しい事も辛いことも色々あった。
今でも時折長野のあのアルプスの山々が望める場所へ行きたいと思う。移住出来ればとも思うが、現在山はあくまで生活の一部なので、なかなか決心がつかない。
コロナでシーズン中に小屋が開かない年もあった。
あの時一緒に働いていた人達はどうなったのだろう。
こちらも緊急事態宣言や働き方の変化など色々な事があった。
暫く遠ざかって山に行けていないが、もうそろそろ登りに行くのも良いかも知れない。

今年これから山小屋に働きに行く人もいると思うが、無事に、良い生活になるよう願わずにはいられない。
登山者の皆さんも、どうかご安全に。

なかなか纏まらず、つい長くなってしまった。
思い出しながらまた追記したり編集したりしたいと思う。

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