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ピエロに生きる価値はないのか

ピエロとは。

コトバンクを頼りとすると、下記の記載がある。

Q) 精選版 日本国語大辞典「ピエロ」の解説

① サーカスなどで、演技の合間に登場して道化を演じる者。また、その役。滑稽な化粧とだぶだぶの衣装で、おどけたしぐさや無言劇などをする。元来、イタリアの即興喜劇中の道化役がフランスのコメディやパントマイムの役柄にとりいれられたもの。
※即興詩人(1901)〈森鴎外訳〉好機会「色蒼ざめたる一童子『ピエロオ』(滑稽役)の服を着けて」
滑稽なことばや動作で人を笑わせる人。また、人の笑いものになるだけの人。(UQ

①はサーカスに登場する名詞としてのピエロであり、太字とした②は代名詞、直喩として使われる言葉であるかと思う。

本日のピエロは②の定義としたい。つまり、ピエロとはふざけて人の笑いものとなる人のこと、とする。

お笑いについて

ところで、私はお笑いが好きである。生来の笑い上戸であることも影響している。芸人達がトークするコンテンツ、リアクションするコンテンツ、ネタ見せのコンテンツ。様々な番組が面白く、様々なコンテンツは私を楽しませてくれる。そして、それらを提供してくれる芸人、スタッフの方々を尊敬している。

私の尊敬するお笑いには、「いじり」という文化が存在する。既に一般用語であり、意味は明白かと思うが(それとも元々一般用語?)、ある特定の人物の容姿や言動を面白おかしく指摘し、指摘に対して対象者が面白おかしく反応することで笑いを取る文化である。一般社会の組織においても「いじられキャラ」というロールがあり、ロールにより組織内のコミュニケーションの円滑化が図られたりもする。

特に、容姿をいじるは手法は多用された。毛髪が少ない人物をハゲ、容姿が現代的な基準から整っていないとされる人物をブス、体型が太いとされる人物をデブなど、容姿を指摘し、それに紐づくエピソードを語る。そうしたいじりをいじられた人物が巧みに対処し、笑いを巻き起こす。ほんの10年前のテレビでは主流であり、今でも使われる手法である。

容姿いじりへの批判

しかし、そうした容姿のいじりには強い批判がある。そもそも現代において、人の容姿をからかったり馬鹿にすることは、人を傷つけ、すべきでないとされる。小学校の道徳の授業で、人の見た目をからかうのはやめましょうと教わった方は多いのではないか。

それに対して、容姿いじりによる笑いは容姿を馬鹿にする風潮を再生産する効果がある。これまでの人生で人の容姿を馬鹿にすることを覚えた人間がテレビに出演する。テレビで今まで覚えてきたように、ブスやハゲとされる人物を馬鹿にする。それを観た別の人間が、ブスやハゲの概念に該当する人をいじられる、馬鹿にする対象として認識する。そして、実行に移す。メディア論で魔法の弾丸理論とされるものに該当する(最も、受け手はそこまで単純ではないとされる説も有力であるが)。

テレビが所謂マスメディアとして、大多数にブロードキャストする機能を持つ以上、多少なりともこうした現象は発生するとされ、懸念される。テレビの青少年への悪影響という言説は代表的であろう。青少年への悪影響という言説については、そうした需要がある、つまり受け手が望んでいるからそうしたコンテンツが生成される面もあるとは思われるが(鶏が先か卵が先か。あまり議論の価値がないですね)。いずれにせよ、容姿いじりによって、別の負、つまりある人物が望まぬ形で容姿をいじられ、傷つくという可能性は否定できず、批判の対象となる。

上記に加え、人はある姿そのままでよい、多様な存在が肯定されるという多様性の承認の広がりは批判を更に強くする。容姿いじり自体が一般(という空気により醸成される概念)から外れるとされる人を否定する側面がある以上、多様性の承認とは相容れない。本来人はこうあるべきという価値観から外れる人を馬鹿にする文脈と、どのような人も存在してよいという文脈の合流は、残念ながら難しい。

容姿いじりという手法は既に社会の流れとは合わず、望まれているとは言えない(一つ目の記事の「大逆転」という表現は、凄く違和感を感じます)。

コンプレックスの昇華機能

一方で、容姿いじりにはいじられる側のコンプレックスを笑いに昇華する機能があるとされる。

そもそもお笑いは人生全てを笑いに転換する作業と思料する。人生であった事件、嫌なこと、嬉しいこと、自分の性格、家庭環境、学校生活、友人など、人生にまつわる全てのことを解釈し、表現し、「笑い」という概念に集約させる。人生の全てを笑いに変える芸人の方々を、私は尊敬する。

そうした中で、容姿いじりは、自らの容姿に悩み、苦しんできた方のコンプレックスを、手段として笑いに利用することで、コンプレックスを強みに変える。笑いという一つのテーゼの下に生きる場合、彼らを苦しめてきたものそのものが、彼らを生かす武器に代わるのである。容姿いじりを通して彼らは自らのコンプレックスを笑いに昇華する。

容姿をいじられる対象は、滑稽に振る舞い、ただ笑われるピエロとなることで、その瞬間生き生きと輝くのである

そうして輝く人を見て、私は感動を受ける。元気を貰う人もいるかもしれない。笑いによって辛い生活から救われている人がいるかもしれない。

時代との対立

しかし、時代はそれを望まない。既に示した通り、容姿いじりは既に批判の対象であり、求める人、それで笑う人の数そのものが減少しているのである。批判の根底は時代、受け手とのズレである。そもそもズレていたものが、SNSによって可視化されただけなのかもしれない

容姿いじりによって不快感を感じる人、逆にそれで傷つく人の声に焦点があたるようになった。そして、正しい容姿など存在せず、全ての人があるがままに生きればよいとされる時代である。わざとブランコから落ちて苦しむ姿を見て喜ぶ人は少なくなりつつある。事実、私も芸人の方々がブスやハゲと言われる姿を見て、笑うことは出来ず、心のどこかに針が刺さるような痛みを感じる。そもそも容姿を馬鹿にする風潮がなければ彼らは最初からコンプレックスを抱く必要などなかったのかもしれない。その場合、風潮を生み出し得る容姿いじりなど、負でしかないのではないかと、短絡的に思う。

上記のような文脈では、ピエロはもう必要とされないのかもしれない。ピエロはショーがあってはじめてピエロとなり得る。誰も望まないショーは開催されず、ピエロの出番はなくなる。次に人々が求めるショーに順応できなければ、ピエロに最早、市場価値はない

取りこぼされる人々

時代、つまり社会が変化し、ある一定の価値観が支配的となる過程で、その価値観から取り残される人々は必ずいるのではないかと思う。

そもそも絶対不変の共通的価値観などは存在せず、全ては流動的なものである。人殺しが肯定される文脈もあれば、人殺しが許されない文脈もある。そうした中で、様々な背景から偶々社会から望まれる価値観があるだけである。そうした、社会で主流となり得る価値観は耐えず変化する。ある時代に支配的であった価値観は、もう既に支配的ではない。家族とマイホームと車が幸せという価値観が、我々の生きる現代で支配的と感じる人は少ないであろう。

しかし、ある価値観で生きる人たちがいる。価値観の変化に順応できず、取り残される人がいるかもしれない。彼らは好きな価値観で、好きなように、自分の持てる力を使って生きたいだけなのかもしれない。

それが仮に時代遅れであった場合、彼らにもう生きる価値はないのだろうか。取り残される人々は、もう必要ないのだろうか。

無論、ピエロの全てがそうであると言いたいわけではない。時代に順応し、ピエロの化粧を落として生きる人もいるだろう。しかし、取り残される人々は確かにいるのではないだろうか。

効率化できない部分をそぎ落とし、無駄を省き、利潤を増やすことで拡大を続けるのが資本主義であれば、そうした無駄が看過できない問題となっているのが現代である。ある特定の価値観について来れない人々を滑稽と笑うことは、それと何が違うのか

自分の答えがない中でもやはり問いたい。反語ではなく、疑問として。

ピエロに生きる価値はないのか。



日曜、月曜に投稿できませんでした。頑張ります。

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