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感覚的なことだから、と習得を諦めていた。

感覚的なことは教えられない。だから習得に苦労する。

物作りは職人の世界、職人の世界は感覚の世界、感覚の世界は教えられない。よく言われるこの事、そう簡単に諦めてはいけないな、と思うようになりました。

そう思うようになった切っ掛けは、ドリルの研ぎ。
いかにも職人っぽい作業なので、感覚的なことで教わる事ではない、と思い込んでいました。
実際に、少し教わっても全く身につかず、見ていても勘所がなかなか分からず、これは無理かもなあなんて思って、随分と長い事、出来るのか出来ないのかを曖昧にして、な~んとなく研いでいたのです。

そんなある時、YouTubeで研ぎ方を上手に言語化してくれて、説明している動画がいくつもあると知ったんです。それらの動画を夢中で観ましたね。
観ては研いでみて、研いでみては観て、なかなか上手くいかずにそれを何度か繰り返していたら、1つ、私の研ぎ方の問題点を見つけたんです。
だから安定しないんだ~、思うような形にならないんだ~、理屈ではそうだよなあ、とはっきりと認識出来ました。

ここ大事。はっきりと認識出来たところが大事。
他に人にとっては当たり前のこと、でも知らない人にとっては感覚的なことだと思い込んで習得出来ていない事、そういうこと、他にもあるんでしょうね。

どっかで見たことがある表を作ってみました。
形式知と形式無知、暗黙知と暗黙無知。

感覚的なこと、というのはいわゆる暗黙知。自分がそれを知っている事を知らないから、言葉で出来ない。教えられない。
暗黙知は言語化を諦めず、なぜ自分がそれを出来るのか、考えて試しに人に教えてみたりして、形式知にしていく作業はとても大事だと思います。

それと同じくらい、ドリルの研ぎ方を知らないと知っている形式無知について、相手の暗黙知なことを学ぼうと努め、形式無知を形式知にしていくのも、大事だと思います。

そして、暗黙無知。その世界があることさえ知らない、という状況。
新しい技術を学んで何となく使えるようになったものの、実はそれをもっと学ぶと、もっと深い世界・可能性があることをそもそも知りもしない、みたいなやつ。
これは大変難しい事なので、そういう世界がある、とだけ認識しておけば、とりあえずオッケーなのでは?と思うことにしています。
強いていうなら、もう少し先の新たな壁(これ以上は無理っぽいと思うところ)を知れるまで行動してみる、学んでみることで、暗黙無知を形式無知に変わることがある、と私は思います。

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