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共有麻痺

  時は、「大共有時代」である。あらゆるSNSを駆使し、個人の日常、芸能人の日常、世の中で起こったこと、身近に起こったこと、ある人のschedule、ある人の心の中、色々な物を共有できるようになった。

 昔はどうだったかというと、共有することに渇望していた。おそらくだが、共有という概念は大昔から存在していただろうと考える。というのも、狩猟時代であっても狩るものと、家を守るものは別々のものが行う役割分担ができていたと考えられるからである。

 これは分け与えるという意識のほうが強いかもしれないが、共有の原形であることは間違いないと思う。立場上、上にいるものが与える行為が"贈与"、対等の立場にいる者同士が与えあうことが"共有"と厳密に定義づけできるかもしれないが、それは現在では当てはまらない

 芸能人や有名人と一般市民は対等であろうか?もちろん、人権といったことを絡めた議論をしたいのであれば、その点に関して私は対等であると考えるので、今回はその点は忘れてほしい。ここで言いたいことは、知名度といった点では対等ではない、ということである。人々に知れ渡っているということから、芸能人や有名人は我々一般市民よりも優れていると言えるのではないか。

 なのでそれらも含めて、「大共有時代」なのである。彼ら彼女らは我々に共有体験を与えることが寧ろ、statusであり、我々はそれをありがたく受け取っている。あらゆる物事に対して、共通の認識、共通の理解を持っておきたいというのが現代の思想だと思う。

 この共有という考えが今かなり変容して現代に現れているということを、言いたい。共有とは本来ありがたい事なのである。共有とは互いの了承がないと行われてはならないものである。それはもちろん、一方的に求めてしまえばそれは共有などではなく、略奪になってしまうからである。他人から身勝手に、求め、手に入れてしまうことはそのように取られても仕方のないことである。

 だが、現在の共有は、略奪的共有が横行してしまっている。本来互いの意思疎通があって行われるものが、他方の意思のみによって強いられている。それがさらに過剰になり、共有すること、はっきり言えば、与えられることが当たり前だと考えるようになる。これが「共有麻痺」という状態である。

 簡単に共有できすぎてしまうことが、共有に対するありがたみを欠落させて、共有を強制するようになる。共有することは特別なこと、当たり前ではないことを忘れないでほしい。

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