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失恋する私の為の人生見直し映画コラム     ⑨「髪結いの亭主」


祝2周年

noteにこのコラムを描き始めて2周年になったバッチをもらった。久しぶりにサイトを開いたその日だったから、リスタートとして幸先がいいぞとちょっと嬉しかった。直近の失恋からも2年・・・もはや心の痛みなど全くなく、よく食べ良く眠り、運動系の教室にも通って体を動かし、むしろ以前より楽しい毎日を送れているような気がする。こうなると何回も失恋してきたのもいい経験だった。
今までだったら、回復するのに3年はかかっていたし、どこがいけないんだろうかと自分を責めてばかりいたけど、甘やかすぐらいに自分の「快」を追求し、楽しいと思えることばかりするようにしたら、ハートブレイクの期間も短縮できるようになったのだ。日々加齢による衰えを感じる五十路も半ばだが、今までの経験は捨てたもんじゃないと実感している。年を取るのも悪いもんじゃないですよ。

しかし、自分を慰めるために書き始めたこのコラムは逆に書けなくなった。気がつけば⑧の「お引っ越し」について書いてから約一年。今は自分にとって言わば「恋愛休止期間」だから、心はいたずらに乱高下せず、一人でいても何の寂しさも感じない。恋愛を扱った映画やドラマを見たり、小説を読んだりしても、そこそこ感動はするが、何だか心がオブラートに包まれたようで、昔ほどヒリヒリするような感動は得られなくなってきている。これも加齢のためか?誰か私に恋愛ってどういうものだったか思い出させて!と声を大にして言いたいくらい。

恋愛とは何か?と改めて考えた時、ふと思い出した映画がある。 
それが今回の「髪結いの亭主」である。

これも恐ろしい映画です

「恋愛映画」と言われて連想する映画は、本当に人それぞれだと思う。やはり、主人公の二人が紆余曲折を経てハッピーエンドに至るというものが王道だろうし、愛し合ってる二人が何らかの事情で離れ離れになる悲恋物語も泣ける。
「映画のような恋をしたい」という言葉があるように、そのように成功する大恋愛は実際にはあまりなく、あまりないからこそ映画になるのだということは大人になるにつれ分かってくるものだ。それでも見る人はそんなことは百も承知で、心を揺さぶられたい、ときめきたい、ドキドキしたい、泣きたい、とスクリーンの前に座るのだろう。しかし恋愛というのは劇薬と同じで、強い思いほど高い高揚感が得られるが、必ずそれには副作用が伴う。

このコラム①で書いた「モンテネグロ」と今回の「髪結いの亭主」は恋愛における副作用の方もきっちり描いた作品だと思う。実はこの二つの映画は似ているところがある。どちらも大人のおとぎ話的なお話だというところと、ラストシーンが突然に過激でびっくりしてしまうところだ。「えっ?そうなる?」と終盤で急に陶酔していた恋愛の世界から放り出される感じ。ネタバレになるので細かくは言いたくない。しかし「モンテネグロ」のビデオパッケージにはラストまでのあらすじがしっかり書いてあるのを最近になって発見したし、「髪結いの亭主」に至っては何とラストまでのあらすじがあのウキペディアに堂々と書いてある。いくら昔の作品だからってひどい・・・。
ただ分かっていても絶対に「ええっ?」と思うはず。垂直に上がって急激に落ちる遊園地の乗り物ーフリーフォールなどというらしいーに乗っているようなスリルを味わえる。
「モンテネグロ」の恐ろしさについてはコラム①に書いたので、「髪結いの亭主」の恐ろしさについて書いていこうと思う。この映画はそんなに恐ろしい映画ではないとはずだ、と思っている方、監督のパトリス・ルコントの術中にまんまとハマってしまいましたね。

「かほりたつ、官能。」

「髪結いの亭主」は1991年公開のフランス映画。
この頃、私は京都でのほほんとフリーターをしていた。24才だった。
ミニシアターの小さい画面で見たのは覚えている。
ただ、今手元に何の資料も残っていない。
フリーターでそんなに余裕のある生活でもなかったが、本当に感動した映画のパンフレットは買っていたし、ミニシアター系はパンフレットが既に売り切れていてない場合もあったので、そんな時はチラシを大事にとっておいたものだ。
当時はこの映画がそこまで好きではなかったのだろう。
若気の至りか、所詮男にとって都合のいい恋愛を描いたものだな、という感じがしたのだ。女性を過度に美化しているようにも。
主演のアントワーヌ役のジャン・ロシュフォールもあまり好きになれなかった。
ジャン・ロシュフォール、何とこの時60才!そうだったのか!
当時は別に年齢のことは全く気にならなかったが、自分がこの年齢に近づいている今、調べてみてちょっと驚いた。
おしゃれだし、しっかり男の色気も漂わせている。
相手役のマチルドを演じるのはアンナ・ガリエナ、当時36才。
24才も開きがあるのにこの二人のカップリングを全く違和感なく見ていた。
さすが恋愛の国フランスの映画である。

あらすじは、幼い時から髪結いの亭主になるのに憧れていた、アントワーヌ(ジャン・ロシュフォール)が念願叶い、理容師のマチルド(アンナ・ガリエナ)と結ばれ、幸せな日々を過ごすというもの。そんなシンプルなストーリーをノルマンディーのノスタルジックな海の風景や、エキゾチックな中東の音楽の挿入歌、マイケル・ナイマンの奏でる悲哀を含んだテーマ曲、を効果的に使い描いている。
公開当時のチラシのキャッチコピーは「かほりたつ、官能。」。
マチルド役のアンナ・ガリエナは三十代半ばを過ぎた成熟した女性の色気をまさにかほりたつように見せてくれる。高く足を組んだスカートの間から見える素足、タイトなワンピースの大きく開いた胸元から見える溶けかかったアイスのように柔らかに崩れ始めている肉体、いつも小さく微笑んでいるように見える口角の上がった少し小皺もある口元、主人公を上目遣いに見上げる憂いを含んだ茶色く大きな瞳。
陽光が差し込み、石鹸やシャンプーのいい匂いに満ちた理容室で愛に満ちた二人の生活が続いていくのだった。

それだけで、それだけで十分なのに監督は衝撃のラストシーンを付け加えた。
初めて見た24才の時は、ビックリしたのと同時になんか感覚的に腑に落ちたというか、少し安心したのを覚えている。なんかそれまでのラブラブぶりにお腹いっぱいになってしまっていたから。そんな程度でそれ以上深くは考えなかった。
ただ、このラストシーンのおかげで絶対に忘れられない映画になってしまった。

当時は監督のパトリス・ルコントは、主演のジャン・ロシュフォールかまたは映画に登場する時のヒッチコックのような、初老で温和でコミカルでちょっと好色も入っている紳士と勝手に思い込んでいたのだが(興味がなかったんでしょうね)、今回見直すにあたり調べてみると、想像していたのとは全く違った人物だということが分かってきた。
まず、公開当時は44才、そして写真を見るとシャープで理知的で少し気難しいような雰囲気を持つ人だった。(現在も現役)
今更だが、パトリス・ルコントについて俄然興味が湧いてきた。

一筋縄ではいかない男

この監督の映画は「髪結いの亭主」しか見てなかったので、その前後の作品「仕立て屋の恋」(1989)、「イヴォンヌの香り」(1994)をDVDを借りて見てみた。
「仕立て屋の恋」は冒頭からサスペンスの雰囲気を漂わせている。
殺された若い女性がまだ殺人現場に残されたまま、シーツのようなものを掛けられている。警察の車がバタバタとやってきて騒然とした空気の中、一人の刑事が降り立って死体に近づき、シーツをめくって死体を確認する。
この刑事が何となく写真で見たパトリス・ルコントと似ているのだ。(私の感想です)
こっちかー。
この刑事は真犯人を突き止めるため、いかにもなイメージの主人公の「仕立て屋」を、執念深く、執拗に追い詰めていく。

「イヴォンヌの香り」も何だか事件現場の証拠写真のような数枚の写真が映し出されるところから始まる。こちらはサスペンス物ではないのだが、やはり不穏な雰囲気を冒頭から漂わせているのは同じ。
そして中年になった主人公が過去を回想するシーンになる。
表情は寂しげで暗い。

今回「髪結いの亭主」を見返して気づいたのはこの「イヴォンヌの香り」と同じように始まっているということ。
こんな始まり方だったのは初見では気が付かなかったところだ。
マイケル・ナイマンの哀切なテーマ曲にのって、「心の中は思い出だらけだ」と
暗い背景をバックに初老の主人公が過去を振り返る。
そうこの物語は主人公の頭の中の思い出の日々を描いたものなのだ。
だから、主人公の都合のいいような見方だったりするのは当たり前だ。
当時の私の感じ方としては正しかった。
でもそれ以上に監督の言わんとしていることには気づけなかった。
「髪結いの亭主」は、なぜラストシーンのようなことになったか、考えさせる映画なのだ。
実は、前後の二つの作品と手法は同じで、一種のサスペンスドラマではないだろうか?
何度も見直してみると、主人公のアントワーヌの目線の中でもマチルドは、ちょいちょいそのヒントを与えてくれているのが分かってくる。

例えばアントワーヌのモノローグで「彼女の良さは深刻ぶらないこと。心地よさだけを求めようと決めたかのようだ」があるが、本当にそうだったのか?好きになったあなたに合わせているだけではなかったのか?
常連客が来るたびに背骨が曲がっていくのに気がつくほど(アントワーヌにはわからない)、神経が細かく繊細な人なのに。
「男は大勢いたけどもうあなただけ」というマチルドがアントワーヌを選んだのも彼が「髪結い」という職業も愛してくれていると思ったからかもしれない。
だから二人がただ一度だけ喧嘩になった時は、アントワーヌが無神経に(だいたいこの人は無神経なくらい呑気な人なのだ)働いてない自分に向けてマチルドが皮肉を言っていると捉えたことからの些細なやりとりが原因だったが、マチルドは「髪結い」に誇りを持っており、アントワーヌを養っているのにも誇りを持っているのに、「本当にこの人は何を言っているの?分かってない!何年髪結いの亭主やってんの?」という気持ちからだったのではないかと推測できる。

マチルドと同じ女として、そしてそろそろ更年期に近づいてきている中年女性として(私はもう卒業し始めているが)、わかるわかるという箇所がたくさん出てきた。かほりたつような官能が出なくなっても私を愛してくれるのか?それは不可能の方のパーセンテージが多いと思われる。老いとは残酷だ。
「一つだけ約束してくれない?愛してるふりだけは絶対にしないで」
結婚の約束をするときの彼女の唯一の条件がそれだった。
20代の若者同士の恋だって愛は最高潮に達した時からは目減りし始める。
恋人同士のもっとも難しい約束を、恋に浮かれたアントワーヌはこともなく安請け合いしてしまったが、絶対に見ないと約束したのにのぞいてしまった「鶴の恩返し」の主人公のように、絶対などないのだ。
マチルドの求めるような純度の高い愛で、愛し続けるのは難しい。
得てしまったものを無くしまうかもしれない不安。
そんなマチルドの気持ちを私は今になって余計にわかる。

パトリス・ルコントはアントワーヌを代表とする恋する男の味方ではない。
これは今回見直してみての新しい発見だった。
脳天気に恋に有頂天になっている間に、相手の女性の出しているサインに気づかず、結果女性に去られた哀れな男達にこう言ってるのだ。
「思い出してご覧なさい。思い当たる節はあるでしょう?」
これが証拠ですと、過去の記録映画を見せて執拗に男達を追い詰めるのだ。
「優秀な刑事」これが彼の正体だとしたら・・・恐ろしいですよね。
女性の複雑な気持ちも理解しているから出来ること、パトリス・ルコント監督はそう簡単に正体を表さない一筋縄ではいかない男なのであった。

本題とあまり関係ないが、私はこの映画で一番好きなのが、少年時代のアントワーヌが憧れる、体全体から幸せが溢れ出ている、ぽっちゃりの髪結いシェーファー夫人ということを付け加えておこう。














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