見出し画像

失恋する私の為の人生見直し映画コラム  ①「モンテネグロ」

1989年私は京都にいた。大学4年の夏、京都駅のすぐ横の船形の建物の中にある、ルネサンスホールでこの映画を見たはずだ。

見たはずだというのは、物持ちのいい私はこの時のチラシを宝物のように大事にしまっており、今それを見ながら、書いているからだ。

ユーゴスラビアの鬼才ドウシャン・マカヴェイエフ監督特集を組んでいて、「スイート・ムービー」「WRオルガニズムの神秘」の3本立てで上映されていた。

チラシには「ブニュエルよりも、フェリーニよりも、ゴダールよりも凄い。」と書いてある。

ただ残念ながら、当時大学の映画研究会にいた私は、ほかの部員より映画の知識は少なく、その3人の映画も数えるほどしか見ていない。どちらかというと自分のカンだけで選んだお気に入りの映画を、自分の宝箱に増やしていくような、かなり偏った映画の見方をしていた。

あまり知識が先行してない私が何故この映画を知って見に行ったか?

何か他の映画を見に行った時に、偶然あった「スイート・ムービー」のチラシの写真の女優(キャロル・ロールという人らしい)に一目惚れしたからであった。アンニュイというのはこういうことか!何だか疲れていて、退屈そうで心ここにあらずな無表情さ。そして大好きな目の下のクマ❤️

まだ若そうなのに人生に倦んだ表情は、不思議なエロさを醸し出す。着ているよれっとしたシャツのボヤけたピンク、黄色、青のシマシマ柄も、中に着ている白のタンクトップの胸の開き方も、その下の胸の形も大好き。真ん中分けの、所々枝毛もありそうな無造作なブラウンのロングヘアも。

私の中のスキが、映画のワンシーンを切り取っただけのこのチラシの写真に凝縮されていたのである。

期待どうり、マカヴェイエフの映画は、私にとってスキの宝庫で、もうどこをとっても金太郎飴のように素晴らしいものであった。

中でも一番好きなのが「モンテネグロ」。

その当時も今もマイベストワン映画である。

しかし、彼の映画はそう一般受けはしなかったようだ。

大学の映画研究会でマイベストテンの映画の披露をしあった時も、彼の映画をベストテンに入れているのは私だけだった。

マカヴェイエフ映画の希少価値

さて、2021年の現在、年甲斐もない失恋でできた心の穴を埋めるべく、どうしてももう一度見たくなった。

だがネットで検索しても、驚くほど情報が少ない。

大手レンタルビデオ店にもない、動画配信もされてない。

検索しまくった結果「モンテネグロ」のビデオテープは大手フリマアプリで一つだけ出品されていることがわかった。その日、日本で手に入れる方法はそれを購入する以外ないようだ。

大急ぎでフリマアプリ会員になり(これも人生初)早速落札。間に合った。

果たして数日後、めでたく私の元にやってきた。

しかし、ネット社会の初心者は落札したら即座に「評価」というものを行わないといけないと知らなかった。忙しさにかまけパソコンを開く事さえしない日々、久々にパソコンを開いたら驚いた。期限までに「評価」してない私は、ネット上で大変迷惑な人物として、警告を受けていた。

本当にすいません。出品して下さったTさん。この場を借りてお詫びします。このコラムを読んでくれている可能性は非常に低いと思いますが、今、最高評価だったということを言わせて下さい。この時手に入れないと、この先永久に手に入らない代物だった可能性があります。奇跡的に手に入ったことに感謝です。見ず知らずの人にまた助けてもらいました。

また、このコラムを読んでくれた方がもしこの映画に興味を持たれて、見てみたいと思われても、もしかしたら今の日本では難しいかも知れません。

「モンテネグロ」は恐ろしい映画です。

と言っても、ホラー映画ではない。

人間の3大欲求の一つ「性欲」に関する、しかも裕福だが退屈な生活を送る主婦のそれだから。

「食欲」「睡眠欲」と違って「性欲」は往々にして「抑圧」という言葉とセットになる。相手がいることだから、満たすことが他のどの欲より難しいものだし。

ことに女性のしかも主婦の「性欲」など無くてしかるもの、くらいに軽んじられている。

映画冒頭の湖のシーンが印象的だ。

「裸で叫びながら街を走りましょうか。」という歌詞の歌とともに輝く湖を見つめる主婦。

彼女は我知らず、日常生活の中で性的欲求不満のため、精神的に少しずつ壊れかけてきている。

湖に面する小高い場所に立つ小綺麗な豪邸。

だがその近くにはわい雑で人間的な匂いのする移民たちの街がある。

そこにあるバーに2日間家出して、滞在する間に彼女は性的に変わっていくというあらすじである。

それだけの話といえば、本当にそれだけの話だ。

でも監督は大人のお伽話のように淡々と人間が自分の性に翻弄されるさまを描いていく。

マカヴェイエフ作品は本当に、どこを切っても私のスキが溢れている。中でも好きなのはタイトルロールのモンテネグロという若者だ。

彼は最初から主人公の主婦に好意を抱くが、その表情がとてもいい。好きという気持ちが隠せなくて顔に出ちゃってる照れた表情とか、自分の欲求を軽く拒否された時のスネてにらんだ表情はもう最高に女心をというか、オバチャンゴコロをそそり、何度も巻き戻して見てしまう(ビデオテープだから)。

相手を誘うように自分の長靴を手持ち無沙汰に脱いだり、また履いてみたり。彼の作品でよく出てくる、子供じみた挑発のシーン、これも大好き。

「これはなぞなぞ映画。迷い込んだら、そこにあなたの欲望がある。」

これは、私が32年間大事にしまっておいた公開当時のチラシの真ん中に書いてある言葉。

私はこの当時この映画の中にどっぷりと入り込んで迷ってしまったみたい。一度しか見ていないのに鮮明にワンシーン、ワンシーンが記憶に残るほどに。

今見直しても全く色あせてない。古めかしくもない。むしろ今の時代も何も変わってない問題。

もっと欲望に正直になって自分を解放したい、素直な自分を許したい。出来ることならば。

ただ今回見直して、当時気づかなかったセリフが印象に残った。

このセリフがあるのとないのでは、主人公の印象がガラッと変わるが、当時は分からなかった。

「私、無責任だわ。」

主婦はモンテネグロにこう言う。

このセリフで、主人公はダテに中年女やってるんじゃないんだな、と同じ中年女として共感を覚えた。これは若い女の子は言わないだろう。非日常の体験の前にも家の洗濯物を取り込むのを忘れたことを思い出すような。どんな修羅場でも冷静に生活感を取り戻してしまう女のサガが言わせている。大胆なところもあるが普通に常識的な人だったんだなあ、ちょっと誤解してた。

明け方、一度は捨てた毛皮を羽織り、家路を急ぐ主人公。

どんな素晴らしい恋のめくるめく瞬間も一瞬で色あせていく。

恋は花火のようなもの。

この映画を初めて見た時の私は大学4年生。二年間の辛い片思いと、半年間だけだったが、初めての成就した恋を経て、この映画の結末もすんなり理解できるようになっていた。

祭りの後の雰囲気を残して物語は終わる。

昔見た映画を見直すと、当時の自分に会えたような気がした。

恋の波は予期せぬ時に襲ってきて、予期せぬ場所に自分を連れて行く。

誰にも教わらなかったけど、恋、なんとか乗りきってきたよね。

辛くてもまたやってくるけど、強くなろうね。

映画の中に入り込んで、昔の自分と手を繋いだら、少し元気になれたかな。



この記事が参加している募集

映画館の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?