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「教祖絵伝」を読み直す 4/25 足達照之丞の話 再考

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前回では、中山みきという人にまつわる伝承の中で最も理不尽だと私が感じてきた「足達照之丞」のエピソードについて、幼い頃から溜め込んできた疑念を全部吐き出させてもらったわけなのだが、いまだに釈然としないのは、どうしてこのような「誰も幸せにしない作り話」が、天理教の信者さんたちには長年にわたって大切にされ続けてきたのか、もっと言うなら、愛され続けてきたのか、ということである。この逸話は平田弘史さんの「教祖絵伝」においても、一回分を丸々使って取りあげられているわけだが、この回に向けて平田さんが描き下ろされた絵は、ハッキリ言って今までに見てきた絵とは気合いの入り方が全然違っているように思う。とりわけ最後のコマの、死んだ我が子をみきさんが抱きしめている絵などは、一幅の宗教画そのものであり、外国の高名な美術館に飾られている聖母マリアを描いた西洋絵画などと比べても、全く引けを取らない迫力を感じる。まさしく平田さんはこの絵に自分の「信者魂」のありったけを注ぎ込まれたのだろうと拝察させて頂くわけなのだが、ここを「大事な場面」だと思うその「信者魂」というのはどのようにして形成されたどのような内容のものであるのかということが、昔から「信者」の人たちに囲まれて成長しつつも自分自身が「信者」になることはついになかった私のような人間には、やはり分からないものとしてあり続けているのだ。

外国の例は知らないし、知っている方がおられたら教えて頂きたいとも思っているのだが、日本にはそもそも昔からこの手の話が多かった、ということがまず言えるのかもしれない。たとえば私の育った奈良県には、中将姫の説話というものがある。奈良の都の藤原南家に生まれた美しく信心深い中将姫は、照夜てるよの前という継母から疎まれて、命を狙われることになる。だが、姫を宇陀の山奥に連れ出して斬ってしまうように命令された松井嘉藤太まついのかとうたという江戸時代的な名前の家臣は…このあたり、やはり後世の作り話であるように思えてならないのだが…健気に覚悟を決めて念仏を唱える姫の姿を前にして、どうしても刃を振りおろすことができず、思い余って「家老」の…まただ…国岡将監くにおかしょうげんに相談したところ、将監は自分の娘の瀬雲せぐもを中将姫の身代わりにし、その首を届けて照夜の前を欺くことで、姫の命を守り通した。といったような物語である。その宇陀の山奥で育った私の同級生は、中将姫の隠れ家だったという尼寺に遠足に行ってこの話を聞かされ、「そんな話があるものか」とショックを受けたと言っていた。その反応は、自分が足達照之丞のエピソードに触れた時のそれと全く同じものだったので、私はホッとしたものだ。20世紀後半以降に生まれた人間なら、やはりそう感じるのが「普通」だと思う。

しかしながら同様の話は他にもある。「菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ」という歌舞伎の演目では、時の左大臣藤原時平ふじわらのしへいに命を狙われる菅丞相かんしょうじょう(菅原道真)の息子、菅秀才かんしゅうさいが、丞相の弟子が経営する寺子屋…また江戸時代だ…にかくまわれているのだが、それが時平の知るところとなり、武装したその家臣たちが寺子屋に押しかけて、菅秀才の首を要求してくる。追い詰められた丞相の弟子は、寺子屋に通っている別の子どもの首を身代わりに差し出して菅秀才を救おうという、とんでもないことを思いつき、それを実行するのだが、そこへ身代わりにされた子どもの母親がやって来る。この母親も殺すしかないのか、と丞相の弟子が刃を握りしめたところ、彼女から出てきたのは「息子は立派に身代わりを果たしましたか」という、思いもかけない言葉だった。実は彼女は菅秀才の命を奪いに来た藤原時平の家臣の妻だったのだが、この夫婦はかつて菅丞相から深い恩を受けており、主君の命を欺いて菅秀才を救うには自分の子どもを身代わりに立てるしかないと考えて、あらかじめ寺子屋に入れておいたのだという。立派に忠義と孝行を尽くした子どもの死にざまに、登場人物一同は改めて涙に暮れて、幕となる。というのが大方の筋書きで、何をどうしたらこんなにえげつないストーリーを思いつくことができるのだろうと思わずにいられないような物語なのだが、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界では、いまだにこの話が大勢の観客を集めることのできる、人気の演目であり続けている。それ以外にも「罪のない子どもが犠牲になる」場面が見せ場となっている歌舞伎の演目は、「伽羅仙台萩めいぼくせんだいはぎ」の政岡まさおかの段や、「仮名手本忠臣蔵」の天河屋儀兵衛あまかわやぎへえの段など、枚挙にいとまがない。

こうした話の多くが成立したのは、支配階級の手によって、日本の歴史の中でそれまでかつてなかったほどに「忠義と孝行」という儒教道徳が強調されていた、江戸時代のことだった。ということが、ひとつの手がかりにはなると思う。この時代に形成された価値観は、「明治」になっても変わることなく、むしろ「忠義」を尽くすべき対象が「各自の主君」から「一人の天皇」へと「純化」を遂げたことから飛躍的に強化され、さらにそれが義務教育を通じて全「国民」の上に押しつけられる経過をたどったことから、より多くの人々の心の領域に「内面化」されて行ったと見ることができる。だから昔の人々は、このように理不尽に子どもの命が奪われるような物語に対しても、それが「忠義と孝行」のためだったということになれば、それに「心から感動すること」が「できて」いたわけなのである。そして中山みきという人の死後、天理教という宗教が「宗教」として自らを確立して行く過程は、正にそのような形で国家による道徳教育…皮肉にもそれは「天理人道教育」と呼ばれた…が「完成」させられてゆく過程と軌を一にしていたということを、見ておかねばならないだろう。

とはいえ、民衆に対して支配者たちが自分たちに都合のいい価値観を押しつけるために上記のような物語群が量産された、というだけのことであったなら、話は非常に分かりやすくて良いのだが、例えば江戸時代において歌舞伎や人形浄瑠璃の台本を書いていた人たちというのは、支配階級であるどころか、むしろその支配階級から最もひどい差別を受けていた階層の人々だったわけである。階級支配と身分差別の「犠牲者」であったはずの民衆自身が、その階級支配と身分差別を補完するような物語を「求め」続けてきたという側面が、歴史には常に存在してきた。このことが、問題をややこしくしている。「ややこしい」というのはまず、その理由が見えてこないということ、そしてその「明らかに間違った価値観」を民衆自身が「克服」してゆくための道筋が見えてこないということの、両方の意味においてである。

思うに、自然科学も社会科学も未発達で、人間の人間に対する支配や差別の形態も今より遥かに暴力的だった時代、「生きる」ということは多くの人々にとって、そもそも「理不尽」なことだった、ということがまずあるのだと思う。もとより21世紀の現在に至っても、自然科学や社会科学は「完成」されているわけでは全くないし、人間が人間を支配することも差別することも、なくなっているわけでは決してない。だから「生きること」が「理不尽なこと」であるという現実は、我々の時代にあっても本質的には何ら変わっていないわけなのだが、その理不尽の度合いが、19世紀以前の世界にあっては今とは比べ物にならないぐらい、露骨でむきだしのものだった、ということである。そしてその時代に生きた人々はそれをどんなに理不尽だと感じても、その理不尽を「受け入れる」ことを通してしか、生きてゆくことができなかったわけだ。その「理不尽を受け入れるための装置」として、上に見てきたような「残酷であればあるほど美しいとされる物語群」は、理不尽の中で生きることを余儀なくされている民衆自身の要請にもとづき、再生産され続けてきたのだろうと考えることができるように思う。

この意味において、マルクスという人が中山みきという人と同時代に「宗教は民衆のアヘンである」と喝破したことは、今でもその正しさを失っていないと私は思っている。2024年6月現在放送中であるNHKの朝の連続テレビ小説「虎に翼」においては、徴兵された父親の死亡通知に触れたその子どもたちの第一声が「お父さんはお国のために戦ったんだよね?」だったという、無数に存在した「史実」ではあるのだろうけれど今に生きる人間から見ればこの上なく不条理にしか思えない情景が、極めてリアルに再現されていた。付け加えて言うなら同じドラマでは、戦前の日本で女性として初めて弁護士資格を取得したような極めて先進的な思想の持ち主であっても、自分の夫やまた男性の友人に召集令状が届いた際には、「おめでとうございます」と口に出して言わざるを得なかったのだという「史実」もまた、冷たいほどの時代考証の上に、再現されていた。今の時代の人間が今の時代の感性に引き寄せて、こうした時代のこうした人たちは「心にもないこと」を言わされていたのだ、と決めつけることは、簡単なのである。けれども私はこうした時代の人々がどれほど真剣に「心からそう思い込もうとしていた」かという事実とこそ、向き合わなければならないはずだと思っている。その時代の人々が、そう信じなければ生きて行けないと思わされていた現実と同じ切実さの中に身を置いて、それでもやはり「そんな一握りの支配者の利害のためにデッチあげられた物語に命を捧げることには、何の意味もない」と相手の目を見て言い切ることのできる人にしか、本当の意味で「時代を変える」ということは、できないものであると思う。そして私の知っている中山みきという人は、まさしくそうした時代において堂々とそうした生き方を貫くことのできた、数少ない人々の中の一人だったのである。

さてそれでは中山みきという人は、同時代に彼女の周りにいた人々を「古い時代の価値観の上に築かれた残酷な物語」の呪縛から解き放ったその上で、どうしたのだろうか。「それに代わる新しい物語」を、言い換えるなら「もっとよく効く別のアヘン」を人々に提供したというだけのことに、彼女が生涯をかけてなしえたことは、すぎなかったのだろうか。この点に関して、いまだ私は答えを持っていない。彼女が説いた教えを「アヘン」に変えてしまったのは、彼女の死後に「天理教という宗教」を作った人間たちが勝手にやったことであって、彼女に責任はない、ということを一方では論証してゆくつもりでいるのだけれど、正直に言うなら「アヘンで何が悪いのだ」という気持ちも、私の中にはないではなかったりする。「それに代わる何か大切なもの」を自分の力で見つけ出すことができるまでは、「アヘン」に頼って痛みを忘れることが「必要」な時期も、人間の人生にはあって当然だろうと思う。人間には「間違いをおかす権利」だって、存在しているのである。

マルクスが「宗教」を「アヘン」であると断じたのは、それを対象化するにあたって彼氏が自分を据えつけた「科学的立場」を、言い換えるなら「共産主義」という思想を深く「信じる」立場からのことだったわけだが、それなら結局マルクスという人にとっては「共産主義」という物語が「宗教」であり、「アヘン」であったというだけの話ではないか、みたいなことを言って、歴史における彼氏の存在を「処理」できたような気持ちになっている人々が、世の中には数多い。けれどもそういう人々は「何も信じなくても生きて行ける人々」なのかといえば、そんなはずは絶対になくて、大方はその人自身がどっぷり浸かって暮らしている「自分にとって都合のいい物語」を「奪われたくない」という「利害」から、物を言っているにすぎなかったりするわけである。「物語の呪縛」から「自由」になったところで生きることのできた人間など、いたのだろうか。何らかの「物語」にしがみつくことを抜きにして、人間は果たして人間として生きて行くことが可能なものなのだろうか。私はいまだそれを知らない。中山みきという人はあるいはそれを「知って」いたのかもしれないが、いかんせんそれを「わかる」ことは、今の私にはできない。けれども人間という生き物が、結局何らかの物語を「信じる」ことに「賭けて」しか生きて行くことができないようにつくられているものであるならば、せめて自分が心から信じるに値すると思えるような物語を「自分の意思で」私は選択したい。それが中山みきという人と向き合い直すにあたっての私自身の立場であることは、この一連のnoteの「序論」において、最初に明らかにさせてもらったところである。

このよふハりいでせめたるせかいなり
なにかよろづを歌のりでせめ

この世ぉは理ぃで攻めたる世界なり
何か万を歌の理で攻め

「おふでさき」1-21

「理不尽な物語」に支配された世の中のありようを、このような形で捉え返し、まさに「理を尽くす」ことを通して人々が「理不尽」を克服したその上に、「よなほり(世直り)」は訪れるのだ、という思想を説いたのが、中山みきという人だった。アヘンをアヘンであると知りつつそれに「酔う」ことを求めるような人では、少なくともなかったはずだと私は信じている。自分の子どもの死を「天然自然の理」として受け入れることならありえたように思うが、それを「神との取引が成立した証」として受けとめていたといったような逸話は、やはりあまりに彼女に似つかわしくないように感じる。

どこからどう見ても理不尽にしか思えない「足達照之丞の逸話」であるわけだが、この物語において彼女は、主君に対する「忠義」のためでも家父長に対する「孝行」のためでもなく、全くの赤の他人である「隣人」をたすけるために、自分にとって最も大切なものを迷うことなく投げ出した、とされている。この点に関してのみは、中山みきという人が実際に説いた教えが反映されている物語であると、思える節がないでもない。同じ「子どもが犠牲になる話」であっても、当時の人々にとっては相当に「新しい」タイプの物語として、新鮮な感動をもって受け入れられていた面があったのではないかと思う。「忠義」や「孝行」のために庶民が自己犠牲を強いられるのは、差別や暴力に屈服させられたその結果のことであり、かれらが「物語のアヘン」から醒めた目で自分たちの姿を直視したなら、そこには惨めさしか残らない。けれども「隣人」のために自分を犠牲にするということは、「自由な精神」を持った人間にしかやれないことであり、その人が自分の意思以外の何からも支配されていない存在であることを証明する行為でもある。この「自由な精神」からなされる「人だすけ」の気高さ、美しさというものが、封建制度の支配から「解放」された直後の時代の人々の心をとらえ、「明治」の終わりから「大正」にかけて、天理教という宗教が爆発的にその信者を増やしてゆくことに大きく寄与していた側面は、確かにあったのだろうと思う。

自由じゅうようという理は何処どこにあるとは思うなよ。
ただめんめん精神一つの理にある。

「おかきさげ」

それ世界成程なるほどという、成程の者成程の人というは、常にまこと一つの理で自由じゅうようという。よく聞き取れ。

同上

人をたすけるということは、誰に強制されるのでもなく、その人自身の「自由な意思」にもとづいてなされる時に、初めて「美しい行為」となるのであり、また周囲にとってもその人自身にとっても、「なるほど」と「納得」の行く行為となる。「信仰」を通じてそのことを知った当時の信者の人々は、間違いなく「自分自身が解放されたよろこび」の感覚を味わっていたはずだと私は思っている。この時代、天理教という宗教との出会いを通じて初めて「自由」の何たるかを知った人々は、福沢諭吉が西洋から翻訳して輸入した概念としての「自由」を文字を通して受け取った人々の数よりも、場合によっては相当多かったのではないだろうか。何しろ中山みきという人が死んでから5年後の明治25年の時点で、日本全国に存在した大学生の数は僅かに1308人、旧制高校に通っていた学生の数まで入れてもそれプラス4443人だったのに対し、天理教の信者数は、当時の教団が発表した数字であることは割り引いて考えねばならないだろうが、すでに100万人を越えていたのである。しかも福沢諭吉が西洋から借用してきた「自由」という概念は、現代に至るまで「利己的に振る舞う権利」であることを越えるものではなかったと私は思っているのだけれど、中山みきが説いたところの「自由《じゅうよう》」は、言うなれば「利他的に振る舞う権利」のことを指す言葉なのであって、内容的には数段上を行っているように感じられる。それを思うと、中山みきという人の「利他の精神」が最も端的に示された逸話であるところの「足達照之丞の逸話」を描き出すのに、平田弘史さんがひときわ気合いを入れておられたのも、あながち理由のないことではなかったのかもしれない。

けれども、この逸話において確かに中山みきという人は「自分にとって最も大切なもの」を投げ出してはいるのだろうが、「子ども」は「もの」ではないのである。それを「おかしい」と口に出して言えない点において、多くの天理教の信者さんたちの感覚は、いまだに封建制度に支配されていると言わざるを得ないと私は思う。もとよりそれは「言わせないようにしている側」が間違っているのであって、ただすならまずそこをたださなければならない。しかしながら、それに黙って従うことを「美徳」であると考えているような人は、本当ならば中山みきという人の思想から一番遠いところにいるはずの人だと、言わねばならないのではないだろうか。「自由な精神」にもとづかないところで人に強いたり強いられたりする「人だすけ」などというものは、本質において「奴隷労働」と変わるところがないと私は感じてしまう。

彼女の時代にはそれが「当たり前」のことだったのだから、中山みき自身も自分の子どものことを「自分の所有物」だと考えていたとしても、不思議ではない、みたいなことを、その感覚を自分自身は「知って」いるわけでも何でもないにも関わらず、どこかで聞きかじってきた「知識」だけを元にして、さかしら顔に言い立てる人々というのが世の中には少なくない。確かに、自分の娘を売り飛ばすような親が大勢存在した時代である。親が子どもをどう扱おうと、それが社会的に非難される理由となることは、今と比べて遥かに少なかった。ということは言えるのだろうと思う。けれどもその中にあって、中山みきという人は

をやこでもふう/\のなかもきよたいも
みなめへ/\に心ちがうで

親子でも夫婦の中もきょうだいも
みな銘々に心違うで

「おふでさき」5-8

という言葉を残している。この歌それ自体は、「みんな違って、みんないい」的なことを歌っているわけでは別になく、むしろ共同生活を送っている他人同士が心を合わせて生きて行くことの困難さを歌っていると解釈すべき文脈の中で書かれているのだが、ここにおいて彼女は、「親子」であっても「子ども」は「親」とは「別の人格」として、言い換えるなら「個人」として尊重されねばならないということを、明言しているわけである。もとより「されねばならない」ということが言葉として書かれているわけではない。言葉づかいそのものが「相手の人格を尊重した書き方」になっているから、そう判断しうるということだ。そういう人が、いくら「自分の子どもの命」であるからといって、それを勝手に「神に捧げる」ようなことをしていたはずがないのである。ゆえに私は、「我が子を犠牲に捧げた」という部分をめぐる彼女の逸話は、「中将姫の伝説」や「菅原伝授手習鑑」のような物語が当時においてはいまだに大衆にウケるということを知っていた、およそ「真面目な信仰心」とは無縁の誰かの手によってデッチあげられた虚構にすぎないと判断している。どだい、真面目な考察に値するエピソードではないというのが私の立場である。

そのことの上で我々は、改めて「史実はどうだったのか」ということを、厳密に検証しておかねばならない。私は上段において、足達照之丞の逸話が「対等な隣人をたすけたエピソード」として描かれている点は評価できると書いたわけだけど、現実はもう少し入り組んでいたと言うか、ねじくれてており、足達家と中山家との隣人関係は決して「対等」と呼べるようなものでは、なかったはずなのである。

それと言うのも、一件の家を挟んで隣り合っていた足達家と中山家とは、共に「庄屋の家柄」であったには違いないのだが、足達家の方は平安時代から記録に地名が残っている三島村の庄屋であったのに対し、中山家の方は三島村の「枝村」として江戸時代になってから成立した、庄屋敷村の庄屋だった。この「本村」と「枝村」の関係というのは、いわゆる「一般部落」と「被差別部落」の関係とは決してイコールでないことを踏まえておかねばならないが…このことを強調しておく必要があると思うのは、こうした一知半解にもとづいて「どこそこの地域は被差別部落だ」と決めつけるような新たな形態の差別事件が、とりわけネットの時代になって以降、奈良県でも他の地域でも、急増しているからである。郷土史を研究していると、現存している家と家との関係にまで踏み込んだ、極めてデリケートな領域の問題に行き当たってしまう場面が往々にして訪れるが、こうした問題と向き合うにあたっては、歴史の舞台となっている場所では今でもその上に人間の生活が営まれているのだということ、そしてそれを調べるにあたり、研究者はあらゆる差別を許さない立場に立つことを、踏まえておくことが大切だと私は思っている。我々が歴史を研究するのは、人間が過去に犯してきたあやまちに学び、それを繰り返すことなくよりよい未来を建設してゆくためでなければならないと、信じているからである。…古村における「本家」と「分家」の関係が一般的にそうであるのと同様に、「枝村」が「本村」に対して従属的な関係をとっているケースがほとんどだったと言いうる。記録の上でも、足達家は藤堂藩の無足人の家柄で苗字帯刀を許されていたのに対し、中山家は許されていなかった。身分の違いとまでは言えないにしても、中山家が足達家に対して日ごろ何かと「気を使わねばならない」関係にあったことは、間違いなかったはずだと思う。

そうした関係の中にあって、足達家が中山家に自分の子どもを預けていたということは、足達家の人々が「家格の違い」を気にすることなく「対等」に中山家と付き合っていた姿勢を示すエピソードとして、周囲から見れば「美談」に映っていたかもしれないが、中山家にしてみれば別段うれしくなかったと思うし、むしろいっそう気を使わなければならないことになって、大変だったのではないかと思う。ましてその子が病気にかかったとなれば、気を使うどころの話ではない。それこそ、「自分の子どもは死なせても、預かった子は死なせない」という覚悟で看病している姿を対外的に示し続けなければ、世間から何を言われるか分からないという緊張感があったのではなかっただろうか。それは非常に「真面目な取り組み」ではあっただろうが、「自由な精神」からなされた「人だすけ」と呼べるようなものでは、およそなかったのではないかと思う。

そうした事情の中で、中山みきという人が「自分の子どもを犠牲に捧げても」ということを実際に神に祈ったことがあったのか、私は知らないし、分からない。それは飽くまで彼女の「内面の事情」なのである。けれども中山家の側には「それぐらいのことをやっている」ということを世間にアピールしなければならない理由が明らかに存在したわけだし、また周囲の人々の間でも「中山家はそれぐらいのことをやっている」という共通認識のようなものが成立していたことがうかがえる。そういう「噂話」が飛び交っていたということは、間違いなかったのだろうと思う。

そしてその「噂話」の内容通りに、預かった子どもはたすかって、実の子ども2人はたすからなかったという「結果」を突きつけられた時、中山みきという人は一体なにを思っただろうか。「これでよかった」とは多分、思わなかったはずだと思う。そして「言葉の力」の恐ろしさというものを、改めて噛みしめさせられたのではなかっただろうか。言葉というものは本心から出た言葉であってもそうでない言葉であっても、あるいは根も葉もないところから出てきた自分の責任でない言葉であっても、同じように現実の諸関係を変えてしまうことのできる「力」を持った「何か」なのである。

いずれにしても、31歳のこの時点において、「他人のためには我が子の命まで神に捧げるような人」であると人から見られていた・・・・・・・・・とされている中山みきという人は、それから10年後に起こった「立教」と呼ばれる出来事の以降においては、「無理な願いはしてくれな」「拝み祈祷で行くでなし」とハッキリ言葉にして人に教える存在へと、180度の思想的転回を遂げているわけなのだ。この「転換」は、何だったのか。すなわちこの間に中山みきという人の内側では、何が起こったのかということこそが、明らかにされねばならないと思う。このことが、私がこれから書こうとしている彼女の伝記の大きなテーマのひとつとなっていることを、読者の皆さんにはあらかじめ伝えておきたい。

「明治」以来、さまざまな人によって中山みきという人の伝記は書かれてきたが、その書かれ方は例えば「おかの」のエピソードであるとか、あるいは今回の足達照之丞のエピソードであるとか、彼女が「神」として人に教えを説き始める前、すなわち彼女が「人間」だった時代の話に重点を置いたものとなっているケースが、極めて多い。このことの理由のひとつとして、自らを「神」として宣言して以降の彼女は信者の人々にとっても「理解を越えた存在」であったのに対し、「人間だった時代の彼女」は信者の人々にとっても「自分たちと同格の存在」であり、わかりやすく親しみやすい存在として感じられてきたということが、あったのではないかと思う。「神様」の真似をすることは人間にはおよそ不可能なことかもしれないが、「人間」の真似をすることは相手が「同じ人間」である限り、決して不可能なことではない。だから自分も「おやさま」がそうしてきたように、夫が浮気をしても腹を立てずに夫の立場を立てることに尽くそう、困っている人がいたら自分の子どものことは放ったらかしにしてでも、「人だすけ」のために外に出よう、といったことを悲しいぐらいに真面目に実践してきた信者の人々が、天理教の歴史においては無数に存在してきた。その姿は私のような人間にとってさえ、「感動的」に映ってしまうことが時としてある。スポーツや音楽の世界で、人間の限界を越えた努力の生み出す奇跡が人を感動させるのと同じような内容において、「力づくで人間を感動させてしまう力」と言うべきものが、おそらくどんな宗教にも、あるものなのだと思う。けれどもその人たちがどんなに頑張ったとしても、その方向性が改められない限り、結局は「DV被害を受け続ける女性」や「育児放棄を受け続ける子ども」が際限なく拡大再生産されてゆくことにしかならないのだという現実を、真面目な信者の人たちは今こそ「アヘンから醒めた目」でもって、直視すべき時代を迎えているのではないだろうか。「間違ったひながた」をいくら「手本」にしたところで、結局誰も本当の意味では、「幸せ」になることなどできないはずなのである。

中山みきという人だって、自分自身で「本当に納得の行く生き方」を手に入れることができるまでには、無数の失敗や挫折や後悔を繰り返していて当然なのだし、またそういう人でなければ、人間として尊敬したいという気持ちは私は起こらない。彼女が「自分の言葉」を自分の責任において人々に語ることができるようになったのは、飽くまで「立教」と呼ばれる出来事以降のことなのであり、それ以前の彼女は、当時を生きたほとんどの女性がそうだったように、「自分の言葉で語ること」もそれに伴う責任も、奪われた境遇の中で暮らしていたのである。まして、これまでのnoteで3ヶ月にわたってつぶさに検証してきた通り、「立教」以前のエピソードとして伝えられている彼女にまつわる伝承は、ほとんど丸ごと「誰かの作り話」に他ならなかったことが、今では明らかとなっている。「立教」以前の彼女の生き方を「ひながた」とすることに、意味はない。「生きる手本」として学ぶにしても、批判的に対象化するにしても、本当に「ひながた」となりうるのは彼女が自らを「神」として宣言して以降に通ったその後半生の部分だけなのだということを、彼女のことを知ろうとする人は、踏まえておかねばならないと思う。

というわけで次回以降はいよいよ、その結節点として位置づけられている「立教」と呼ばれる出来事が「何」であったのかということを検証し直す作業に入って行くわけなのだが、その前に少しだけ、足達照之丞という人の「その後」について触れておきたい。「明治」になってからは源四郎という名前に改名したこの人は、中山みきという人が生きていた間もその後も、変わることなく中山家の隣人としてあり続けた人である。中山みきという人が90歳で亡くなった時、この人は既に69歳になっていたのだが、その前年、彼女が足達家を訪れた際に、照れて嫌がる源四郎氏を「おんぶして歩いた」という伝承が残っている。恩も知り、恥も知る人で、「隣のおばさん」だったみきさんのことを何くれとなく心配し、近所づきあいを欠かさなかったということが伝わっているが、「神」としての彼女の言動や、後に成立した天理教という宗教に対しては一貫して距離をとっていたということであり、彼女の死後に天理教本部が敷地を拡張しようとした際、最後まで自分の地所を売ろうとしなかったのがこの源四郎氏だったということも、伝わっている。中山みきという人の周辺には、そういう人もいた、ということを記憶にとどめておきたい。

それでは次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。