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1月26日に中山みきという人のことを思う

毎年1月26日は奈良の天理教本部で「春季大祭」が行われる日である。

なぜこの日が「大祭」にあたるのかというと、天理教の教祖とされている中山みきという人が死なはった日ぃが旧暦の1月26日だったからである。

…この短い文章を書くのに私はずいぶんと考え込まなければならなかった。

というのは、この「中山みきという人」に対してどういう「言葉の使い方」をすれば自分にとって一番しっくり来るかということが、私にはいまだによくわかっていないのだということを、改めて気づかされずにいられなかったからである。

このかん、上のマガジンにまとめてある何本かの記事の中で複数回にわたって触れてきていることなので、くだくだしくは繰り返さないのだけど、私は天理教の家で生まれた。しかし私自身は「天理教という宗教」の「信者」ではない。けれども近代以降の日本を深々と支配し今なお支配し続けている天皇制という制度に対して最も早い時代から「反対」を表明し、そのために事実上の拷問死という最期を迎えなければならなかった中山みきという人の生きざまには深い共感と関心を抱いており、その立場からこの人の「追っかけ」を続けている、という、ややこしい人間である。とはいえ私は自分のことを別段「変わったタイプの人間」だとは思っていないし、私と同じような立場から中山みきという人に興味や関心を抱いている人も、決して珍しくはないはずだと思う。その証拠に上に転載したリンク先のノートは、結構、読まれている。

ただ、そういう立場から「中山みきという人」と向き合おうとすることは、そのこと自体「天理教の人たち」にとっての「常識」と衝突する場合が多く、「普通のこと」しか言っていないのに何か自分が「神をも恐れぬ暴言」でも吐いているような感覚にとらわれてしまう場面というのが、私みたいな人間にも、しばしばあるのである。具体的には

中山みきという人が死なはった日ぃ

みたいな「言い方」ひとつとっても、親戚や教会関係の人たちの耳に入ったら

「おやさま」に向かって何ちゅークチの聞き方をすんのんねんな!

と激怒されてしまうであろうことが容易に想像できてしまう。「すんのんねんな」だなんて、よその地方の人から見たらずいぶんとユーモラスな怒り方だと思われるかもしれないが、激怒される側にとってみればやっぱりそれなりに「怖いこと」なのである。それに私だって別に、その人たちと積極的にケンカがしたいわけではない。するしかない時には、もちろん、するしかないわけなのだけど。

そして、そう。「天理教の世界」では、「中山みきという人」のことが「おやさま」と呼ばれているのである。このことの理由自体、私にはよくわかっていない。中山みき自身が自分のことをそう呼べと言ったことは、たぶん、なかったのではないかと思う。誰か特定の人間に「様」をつけて他の人間にはつけない、といったようなことはそれ自体「差別の始まり」に他ならないことだと思うし、中山みきという人の思想とも相容れないことだったのではないかと思う。なので私は、そう呼べと言われて育った子どもの頃はともかく、オトナになった今となっては、この人のことを「おやさま」と呼ぶような気には、ちょっとなれない。

かといって

1月26日は天理教の教祖とされている中山みきが死んだ日である。

みたいな「突き放した書き方」ができるかといえば、「それはちょっと言い過ぎではないか」みたいな気持ちが自分でもしてきてしまうあたりが、何と言えばいいのだろう。私という人間の「修行の足りないところ」なのかもしれないと思う。幸徳秋水や大杉栄のことなら平気で呼び捨てにできるのに「中山みき」とは呼び捨てられないこの感覚というのは、何なのだろうか。おそらく「天理教の家」で育った人間でなければ、全く理解できない感覚なのだろうなと自分でも思う。

ただ、「様」づけで呼ぶのが「普通」であるとされている対象を「呼び捨て」にすることは「敵対を宣言すること」であるという感覚が日本語話者にはあるから、「そう思われるのはイヤだ」ということを私はハッキリさせたいわけなのである。「天皇陛下」と呼ばれるのが「普通」であるとされている人間を「天皇」と呼び捨てにすることは、それ自体が「政治的な意味」を持つ行為になるわけであり、その意味において私は天皇を天皇と呼ぶことに躊躇しない。キライだから。あんなの。けれども中山みきという人に対しては別段「そういう感情」は持っていないわけなのだ。なので「呼び捨て」に「まで」すると、「やりすぎ」なのではないかという感覚が生じてしまう。

だからと言って、「中山みきさん」みたいな呼び方をするのも、どうだろう。正直そこまで親しくないというか、欺瞞的な感じがする。天理教の信者の人たちはあの方を「おやさま」と呼んで何やら敬意の対象にしていらっしゃるようですけど、私はずっとあの方と対等に付き合っておりますのですよ、的な鼻につく感じが生まれてしまう。何でそれが鼻につくのかというと、その人は他人が敬意の対象としている人物と「対等に」つきあっていることを「ひけらかす」ことを通して、自分も他人から敬意の対象とされるぐらい「エラい」人間なのだということをアピールしたいのだな、というようにしか思えないからである。ちょうど京都の人が何かというと天皇のことを「天皇さん」と呼びたがるのと同じようにだ。まあ、ちょっと、言わなくていいことまで言ってしまったかもしれないが。

あと、「中山みきという人が死なはった日ぃ」に「命日」という言葉を使うのがためらわれるのは、「仏教的な立場から天理教という宗教を対象化している人間」だと思われても困るという感覚があるからである。ちなみに天理教では「死ぬ」ということが「出直す」という言葉で表現されており、「当人が死んだ日」は「出直し当日」と呼ばれていて、「命日」という言葉は使わない。「今日は大杉栄の命日だ」みたいな表現は「普通」だと思うし、その言葉の使い方を「宗教的だ」と感じる人も、いないと思う。というのは大杉栄という人自身、無宗教の人だったし、「その人が死んだ日」という以外の「情報」は、この文脈の中には含まれていないからである。けれども天理教の信仰を持っていた人に対して「命日」という言葉を使うことには、「その人の信仰を否定して仏教の価値観を押しつける」という「宗教的な意味」が生じてくる。そういう場面に遭遇することでもない限り滅多に意識させられることはないけれど、「命日」というのもやっぱり「宗教用語」なのである。

さらに話をややこしくすることとして、天理教という宗教では中山みきという人に対してだけは「出直した」という表現を使わない。「現身(うつしみ)を隠された」、という表現が使われている。これというのは中山みきというのは「人」ではなく「神」であったという「教団の立場」を天理教本部が現在もなお否定しておらず、空海という人が高野山でいまだに生き続けているという伝説があるように、教祖中山みきも教会本部の「教祖殿」で身の周りの世話をする係の人たちにかしづかれつつ今なお生き続けている「てい」がとられている、といった事情が存在しているからなのだけど、こんな贔屓の引き倒しみたいな「神格化」については、明確に否定しておかねばならないと思う。なので結局「死んだ」という「身もフタもない言い方」を「あえて使う」しかない必要が生じてくるわけなのだが、だからと言って中山みきという「人」のことを「おとしめたい」わけでも、決してないわけなのである。

そんなこんなで1月26日という日は私にとって

天理教の教祖とされている中山みきという人が死なはった日ぃ

という「地の言葉」の混じった言い方でしか表現のしようのない日であるわけなのだった。言葉を正確に使うということは本当に難しくかつめんどくさいことだと思うが、正確に使おうとする努力をしない限り、自分が何ものなのかということが、自分でもわからなくなってしまうものなのである。

なお、中山みきという人が死なはったのは旧暦の1月26日だったので、今の暦に直すと2月18日になる。

…1月26日関係あらへんやんけ。

さて、その中山みきという人のゆかりの場所である「櫟本分署跡保存会」の方々が、天理教の言葉で言うなら「135年祭」にあたるこの1月26日、新しくnoteのアカウントを開設されたということが伝わってきた。と白々しい書き方をしてみるのだが、同所に保管されている膨大な資料をどういった形で公開すればいいだろう、と悩んでおられた会の方々に「noteが使いやすいですよ」と進言したのは何を隠そうこの私である。言った以上は積極的にお手伝いさせて頂きたいと思っている。

「大阪府奈良警察署櫟本分署」は、中山みきが89歳の時、「天皇も百姓も同じ魂」であるという主張を曲げなかったがために12日間にわたる拘留を受け、そのまま二度と起き上がれなくなるまでに体を痛めつけられた「教祖最後のご苦労」の場として知られるところで、1986年の教祖百年祭を前後して、廃屋同然になっていたところを保存会の方々が整備し、人間中山みきの在世時の姿をしのぶ記念館のような場所として、現在では運営されている。同時にこの保存会では、かつて天理教本部の修養科で「教祖伝」の講師をつとめ、2014年に亡くなった八島英雄という人を中心に、ゆがんだ形で教えられてきた中山みきの教えを「復元」するための取り組みが、進められてきた。関心のある方は、有料記事にさせてもらっているが、下の記事も併せて読んでいただければ幸いである。


サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。