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【速報】「かぐらづとめ」公開される

先日noteのアカウントを作成された、「天理教教祖最後のご苦労の場所」として知られる大阪府奈良警察署櫟本分署跡保存会のみなさんが、2002年10月26日に同所でつとめられた「かぐらづとめ」の動画を公開された。

これは、大事件である。

少なくとも私のように「天理教の家で育った人間」にとっては、自分(たち)の歴史とアイデンティティが根こそぎひっくり返されて余りあるくらいの、大事件である。

そして私と同じような育ち方をした人々の数というのは、いくら天理教の教勢が衰えた昨今とはいえ日本列島だけで数百万を下らないわけなのだから、これはやっぱり控えめに言っても、「大事件」という言葉を使わせてもらって差し支えのない出来事なのではないかと思う。

「そうではない人たち」にとって、この出来事が果たしてどれくらいの「意味」をもって受け止めてもらえることなのかということについては、正直私には、よくわからない。とりあえずそれが「私たち」にとってどれくらいの「大事件」であるのかを知ってもらうために、このかん有料の限定公開にしてきた下の三本の関係記事を、向こう一ヶ月間に限り、無料で全文公開させてもらうことにしようと思う。そういった個人的な形であれ、何か「祭り」をやらないことには落ち着かないくらい、私は今回のこの出来事に、胸の高鳴りを覚えている。

大塩平八郎の乱の兵火で、奈良盆地から見て生駒山の向こう側にあたる大坂の空が真っ赤に燃えあがったその翌年にあたる1838年10月26日、「ごく普通の農村主婦」として家事と農業に生きてきた40歳の中山みきは、家族と親類を前に、今日から自分は「世界たすけ」に生きると宣言し、そしてそれから50年近くにわたる残りの生涯を、「その通りに」生きた。近在の僧侶や神主、やくざやごろつき、明治政府の役人、さらには警察、誰が押しかけて敵対をしかけてきてもそう宣言し、そう生き続けた。彼女が説いた「教え」に「神秘」の要素は何ひとつ存在しなかったと、私は理解している。

大名もかごかきもなく、天皇も百姓もなく、すべての人々がたすけあって陽気に暮らせる世界をつくりたい。

という「誰もが思い描いて当然の夢」を、彼女は「本気で」実現しようとした。それだけのことだったと思うのだけれど、それこそが彼女の生きた時代には「他の誰にもやれなかったこと」だったのである。その点において私は彼女のことを、間違いなく「偉大な人」だったと思っている。

彼女はその理想を「歌と踊り」に託して、人々に伝えた。それが「かぐらづとめ (かんろだいつとめ)」であり、現在の天理教における「おつとめ」の原型にほかならない。

彼女の教えに触れることで実際に「ない命がたすかる」ほどに「救われる」経験を味わった人々が、無数に生み出された。次々とお礼参りに訪れるその人たちのことを、彼女は「今度はあんたがたすける側に回るんやで」と送り出した。「やまとばかりやないほどに」という「みかぐらうた」の文句そのままに、その歌声は大阪に京都に、さらには四国に東海にと広がっていった。「歌と踊り」があったからこそ、人々は「ひとつになる」ことができたのである。

天皇制を掲げた明治政府が恐怖し、弾圧の対象としたのは、この「かぐらづとめ」に表現された「世直しの思想」にほかならなかった。「かたちのないもの」を「取り締まる」ことはできないわけだが、「かたちのないもの」にとどまっている限りは「取り締まる必要」も生じてこないのである。だからこそ明治政府は「かたちとして」表現されている「かぐらづとめ」を目の敵にし、これを根絶しようとした。弾圧を恐れる「そばのもの」たちは繰り返し、中山みきの目を盗んで「かぐらづとめ」を取りやめにしてしまうことを画策したが、彼女は断固としてそれを許さなかった。「行為として表現されない思想」などというものには意味がないということを、彼女が知り抜いていたからだったと私は理解している。

89歳の時、拘留先の櫟本分署で拷問を受けて二度と起き上がれない身体になった中山みきは、死の床にあってなお、恐れることなく堂々と「つとめ」をおこなうことを「そばのもの」たちに呼びかけ続けた。

法律がある故、つとめ致すにもむつかしゆう御座ります

と二の足を踏んでいた「そばのもの」たちも、

律が恐わいか、神が恐わいか

という彼女の命がけの叱咤を受けて腹を括り、官憲が屋敷を取り囲む中、「命を捨てて行なうこと定めた心の者のみ」の手によって、ついに「かぐらづとめ」は再開されることになった。中山みきがその歌声に送られて息を引き取ったというエピソードは、私のごとく「信者の家で育った人間」なら誰しも、強烈な印象を持って胸に灼きつけられている逸話であると思う。

けれどもそのときつとめられた「かぐらづとめ」が「どんなつとめ」だったのかということは、それから135年にもわたり、「普通の信者」には誰にも窺い知ることができなかったのだった。彼女の死後、「かぐらづとめ」は、毎月26日に「本部の床下」で中山家の関係者たちによってのみ執り行なわれる、「秘密の儀式」へとその姿を変えてしまったからである。

「かぐらづとめ」が「秘密の儀式」へと変貌してしまわざるを得なかったのは、大きくは官憲による弾圧の結果だったと言うことができるだろう。けれども中山みきという人は「世界いちれつ」の誰もがこの「歌と踊り」を共有することを望んでいたし、求めていたのである。それが「限られた人間」にだけ「占有」されるものへと変質してしまった時点で、「天理教という宗教」は「中山みきの教え」とは似ても似つかぬ体系に変わってしまったのだと、私としては、断じざるを得ない。

天理教で現在「一般信者」が教えられる「みかぐらうた」の手振りは、本当ならば「かんろだい」を囲んで円形になってつとめるのでなければ、意味をなさない内容になっている。それを私の祖父母や曽祖父母の世代の人たちは、意味も教えてもらえないまま丸暗記させられて、「横一列で」つとめてきた。「意味のわからないこと」を「真面目にやること」が「信仰」なのだという「不真面目な態度」に支えられて、それだけで自己満足していた人たちというのも、まあ、それなりにいたのだろう。けれども19世紀末から20世紀初頭という時代にかけて「天理教に出会って人生が変わった」という経験を持つ人たちの圧倒的多数は、我々の知る限り、「圧倒的に真面目な人たち」だったのである。

それこそ、家に財産もなく、文字を学ぶことのできる条件もなかった中で、「自分も人だすけがしたい」という情熱だけに支えられてとんでもない山間僻地にまで布教に駆け回っていた人たちの伝説が、どんな教会にも必ず残っていることを我々は見知っている。また現在の天理教本部とは違う道を歩んだ人たちではあるものの、戦前に「不敬事件」をデッチあげられていくら拷問されても天皇の神性を認めず、同時期に3•15事件で大量に投獄されていた左翼の人々をして「天理教の人はすごい」と驚嘆せしめた「ほんみち」の方々の「たたかい」に、私は敬意を感じている。私の伯父などは多分世間からそれと同一視された結果として、「天理教は非国民だ」と子どもの頃に迫害された経験を持っているのだが、私たちの世代になるとその歴史をむしろ「誇り」に感じさせてもらったりもしてきたわけだ。いろんな人たちが実に「大変な思い」をしながら、「天理教の信仰」を守り抜いてきた。それはいかに歪められた形ではあっても大切に語り伝えられてきた中山みきという人の「生きざま」から、出会った人々のそれぞれが「何か」を感じ取ってきたことの結果だったはずだと私は思っている。

けれどもその人たちがそれぞれの「みちのおや」となった人々から教えられ、守り抜いてきた「教祖の教え」というものは、「教団」が「国家公認の宗教」となったその時点において既に、「中山みきの教え」からは似ても似つかぬものへと変わってしまっていたわけなのである。だからといって私は自分につながるその人たちの生きざまを「滑稽だった」とは思わない。むしろその人たちはどんなにか「本当の教え」を知りたいと思っていただろうかと、そのことを思う。戦前における「経典の文句」が「イソップの言葉」にすぎないことぐらい、当時の人たちにも「わかりきっていた」はずなのだ。その中にあって数えきれないくらいの信仰者の人たちが、中山みきが直に書き遺した「おふでさき」のこのくだりにはどういう意味が込められているのかとか、「みかぐらうた」のこの手振りにはどんな意味が込められているのかといったことについて、それぞれ死ぬほど悩んだり考え込んだり、しなかったはずはなかったと思う。それにも関わらず「本当の答え」は21世紀の今日に至るまでずっと、本部の床下に「隠された」ままになっていたわけであり、誰もがそこに答えがあることを知っていたにも関わらず、それを目で見て直に確かめることはできない状態が、続いてきたわけなのである。

それが今回、誰もが目で見て確認することができるような形で、公開された。

大事件なのである。

今回この「かぐらづとめ」の動画が公開されたことをもって、天理教が今後オカルト的な興味や関心の材料となりうるような要素は、根絶されたと言っていいだろう。大川隆法みたいな部分が「中山みきの霊言」みたいな本を勝手気ままに書き散らすことのできるような余地も、消滅したと言っていい。ここには何の「神秘」も存在しない。

「かぐらづとめ」=「かんろだいつとめ」の歌と踊りに表現されているのは、男性と女性が「たすけ合う」ことを通して初めて生命は生まれてくるのだということ、それが「すいき」「ぬくみ」「つっぱり」「つなぎ」といったさまざまな「はたらき」の調和とたすけ合いを通して、維持され育まれてゆくのだということ、といった「単純な事実」にほかならない。けれどもその「単純な事実」が「事実」として成立しているというそのこと自体の中に、世界の本当の「不思議」は存在している。

その不思議を味わい自覚することに「つとめ」の「意義」が存在する、みたいなこじつけ方をすることも、まあ、可能なのだろうが、そこに「意義」を求めるのは「人が歌ったり踊ったりするのはなぜか」という問題に「答え」を求めるのと同じくらい、究極的には「無意味」なことだといえるだろう。

中山みきは「みんなが楽しくなることができる歌と踊り」を作ったのだと、そう受け止めておけばいいのではないかと個人的には思っている。生前の彼女のイメージとしては、この「つとめ」は家族や近所付き合いをしている人たちを単位として「楽しく」つとめられ、かつ同時に自分たちが「たすけ合う」ことを通して初めて毎日の暮らしは再生産されているのだということを改めて自覚できる契機となればよい、といったものではなかっただろうか。もちろんその「踊りの輪」が、家族やムラ社会といった単位を越えて「くにぐに」や「世界いちれつ」にまで広がってゆけば、それはますます「陽気」で楽しく美しいものに変わっていくに違いない。

天理教本部の春季大祭や秋季大祭が「そういうお祭り」に改められるようなことがあったなら、久しぶりに足を運んでもいいかなとちょっとだけ思っている。

いずれにしても櫟本分署跡保存会の皆さんの英断には、敬意を表したい。予想される反動に対しては共に立ち向かってゆく決意であることを、支援者として明らかにしておきたいと思う。


サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。