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「まんが おやさま」を読み直す 9/48 人だすけの逸話2

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「まんが おやさま」を読み直す企画の9回目。作画者のとみ新蔵さんは、この回を描く時、かなりの葛藤を抱えながらも、真摯な気持ちで原稿と向き合われたのだろうなということが、伝わってくる気がした。貧乏に苦しみながらも、必死に突っ張って生きている人間の気持ちというものを、この人は「知っている」人だ、と感じたからである。それにも関わらず、この回における「乞食のおばさん」の描かれ方は差別的であると、私には感じられてならなかった。このことは結局、「乞食」と呼ばれている人たちに対するリトルマガジン天理少年編集部の向き合い方、引いては天理教という宗教団体が「乞食」と呼ばれる人々と向き合ってきたその向き合い方が、一貫して差別的だったことの結果に他ならないのではないかと私は思った。

数回前から毎回のように書いていることだが、中山みきという人が元々「大金持ちの地主のご新造さん」で、有り余る財貨を人に「施す」ことのできるような立場にあったとされている伝承は、ほとんど丸ごとフィクションだったのではないかと私は考えている。実際の彼女はどんな形で、またどんな姿勢で「乞食」と呼ばれる人たちと向き合っていたのだろうかということを、私はまず考えた。けれどもそんなことよりも先に、何をおいても考えなければならないのは、実際に「乞食」と呼ばれている立場の人たちがこうしたマンガを、あるいはこうした「天理教教祖伝」を目にしたとしたら、一体どんな気持ちがするだろうか、ということなのではないかと思った。そのことについて考え続けていて、今回の記事を書き始めるのにはずいぶん時間がかかってしまった。

天理教という組織が過去百数十年にわたり、「乞食」と呼ばれる人々の「救済」に取り組んできたことは、一面では事実であるに違いない。けれども人を差別する立場にある人間たちが、差別される立場の人々を一方的に「救済」の対象として位置づけ、「救ってやるぞ」というような態度で向き合うことは、部落解放運動の中で使われてきた言葉にならって言うなら「融和主義」そのものであり、形を変えた差別主義に他ならないと言わねばならない。前世紀においてハンセン病患者の人たちに対する強制隔離と不妊手術の強要を誰よりも積極的に押し進めてきたのは、患者の人たちのことを「救済」すると称する人間たちだったわけである。組織としての天理教が「乞食」と呼ばれる人々と向き合ってきたその向き合い方というのは、それと同質のものにしかなっていなかったのではないかということを、私は感じずにいられなかった。

たとえば「乞食」というのは「困っている人であるから、いじめたりせずに、助けてあげる心を持とう」という上のマンガの欄外の「説明書き」についてなのだけれど、これなどは「誰に向けて」書いている言葉なのだろうかと私は思う。字面それ自体とは裏腹に、「いじめたくなる気持ちも分かるけど」ということを「わざわざ」強調しているような言い方である。人をいじめる人間のそうした気持ちに、オモネったりスリ寄ったりする必要がどこにあるのだろうか。天理教の教えが本当に「いちれつきょうだい」を説くものであったとしたら、信者さんの中には実際に「乞食」をやっている人たち、あるいはやっていた人たちが大勢いておかしくないのだし、私と同じ時期にこの「天理少年」を読んでいたその子どもたちだって、大勢いたに違いなかったはずだと思う。けれども「当事者」であるそうした子どもたちの気持ちというものは、この文章においては全く省みられていない。「乞食」というのは「いじめられて当然」の存在だという差別意識を自分自身でも隠し持ったまま「天理教の信者」をやっている人間が、その差別的な感性のまま書きなぐった文章であるという印象しか私は受けない。それを指摘できる人間さえ当時の天理教の中にはいなかったのだろうかと思うと、その人たちの言う「いちれつきょうだい」とは果たしてどこまで「本気」で言っていたことなのだろうということを、やはり疑わざるを得ない気持ちになる。

あるいは、中山みきという人が「乞食のおばさん」の子どもに自分の乳房を含ませようとするのに対し、母親であるそのおばさん自身が「けがれまするぞ」と言って止めにかかろうとする描写があるわけなのだが、なぜこのおばさんがそんなことを言わねばならないのだろうか。言わされなければならないのだろうか。「乞食」というものを「けがれた存在」であると見なし、「臭い」「鼻が曲がる」「シラミが移る」等々といった言葉で差別的に排撃しようとしているのは、そういう人たちが本当に実在したのかという問題はさておき、このマンガのストーリーに沿って言うなら、飽くまで「中山家の使用人たち」に他ならなかったはずなのだ。そうした差別が間違っていることを人々に教えたのが中山みきだったということを「本気で」読者に伝えたいと思うのであれば、この話は当然その使用人たち自身が自らの過ちに気づかされ、反省して改心するという話になってこそ「本当」であるはずだろうと思う。それにも関わらず、この話においては差別を受けている当事者であるところの「乞食のおばさん」だけが、「反省」して「改心」する姿を読者の前に見せている。見せさせられている。間違っているのは明らかに「差別する人間たち」の方なのだから、このおばさんは最後まで堂々としていればそれでいいのである。どうしておばさんの方が「反省」して「姿を消す」ストーリーにならなければならないのだろうか。「乞食をして生きること」それ自体が「間違ったこと」なのだという「思想」が、こうした物語を作った天理教の人たちの中には存在していたからだとしか思えない。けれどもそうした差別的としか言いようのない「決めつけ」が、中山みきという人自身の思想であったとは私には到底思えないのである。

そもそも、家もあり仕事もあって、食うことにも寝るところにも困っていない人間が、その両方を持っていない人に向かって「私もあなたも同じ人間だ」という趣旨の言葉を吐くようなことは、欺瞞もいいところではないのだろうか。言われる方の立場からしてみれば、「傷つく」ことはあっても「感動する」ことなど決してありえない、言葉の暴力そのものだと思う。それぐらいのことが、中山みきともあろう人に「わかって」いなかったはずはなかったと思うのだ。この時期の彼女にできたことがあったとすれば、それは「真剣に悩むこと」だけだったのではないかと私は思う。「相手の立場に立って考えたなら、自分はどうするのが正しいのか」ということについてである。もちろん、悩むだけではなく、何らかの行動はとったことだろう。けれどもどんな行動をとったところで、もとよりそこに「正解」などはありえない。

貧に落ち切れ。
貧に落ち切らねば、
難儀なる者の味が分からん。

稿本教祖伝逸話編4

後年、「神の教え」を取り次ぐようになって以降の彼女はそのように語り、中山家の財産を家屋敷から田畑まで含め、ことごとく貧しい人々に施してしまったという伝承が残されている。先回りして書いておくならば、この有名なエピソードもまた、実際には史実とかけ離れた完全なフィクションであった可能性が極めて高い。「立教」の年とされている1838年から幕末にかけて、中山家が「貧のどん底」を通ることになったことそれ自体は事実なのだが、その原因は別のところにあって、「施し」で財産をなくすことになったわけではないという客観的な傍証がある。また中山みきから実際に「施し」を受けたという人の記録は何一つ残されていないし、かつ「施し」を受けた人が後年恩返しに来たり信者になったりといったことがあったのかどうかということも、全く伝わっていない。

けれども、そうした「貧のどん底」の中にあって、彼女が

流れる水も同じこと、
低い所へ落ち込め、落ち込め。
表門構え玄関造りでは救けられん。
貧乏せ、貧乏せ。

稿本教祖伝逸話編5

と歌うように語りながらその境遇を「楽しんで」通っていたという逸話については、事実だったのではないかと私は考えている。他のいろいろな逸話と読み合わせて考えても、実に「中山みきらしい言葉」だと感じるからである。またこうした形で伝えられている「教祖おやさまのひながた」に感動し、自らもまた全財産を投げ出して「たすけ一条の道」に踏み出した信者の人たちが、とりわけ「明治」の終わりから「大正」にかけての時代においては、実際に数多く生み出されている。もとよりそれは誰にでも真似のできることではないし、他人に押しつけていいような「教え」であるとは思わないにせよ、日本の民衆史においてやはりそれは「偉大なこと」だったと、私は思わずにいられない。

ただし、「稿本教祖伝」にはその逸話に続いて、中山みきは貧乏に苦しむ自分の子どもたちに対し、

どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。
乞食はさゝぬ。

稿本天理教教祖伝

という言葉をかけて「励ました」ということが書かれている。もしそんなことを彼女が本当に言ったのだとすれば、私はガッカリである。それが事実だったとするなら、中山みきという人は口では「自分が貧乏しなければ貧乏している人の気持ちは分からない」などと美しいことを言って「施し」をしていながら、内心ではその相手のことを「さげすんで」いたのだということになってしまう。とんでもない偽善者ではないか。後年の彼女の教えと照らし合わせるなら、彼女は絶対にそんなことは言っていなかったはずだと、私は信じたいと思っている。

どんなに貧しい生活を送っていても、あるいは人から差別を受けるような境遇におかれていても、「自分(たち)は『乞食』ではない」、「『乞食』にだけはならない」ということを、「人間として生きる上での最後の誇り」みたいに位置づけている人たちというのが、世の中には数多く存在する。私にとって身近な人々で言うならば、たとえば日本共産党の人などにも、こうした主張を「胸を張って」口にする人はずいぶん多い気がするし、部落解放同盟の人たちからも、同じような言葉を耳にすることがある。もちろん天理教の中にも、そうした人たちは少なくない。小さい頃に亡くなった私の祖母などは、正にそういう人だったと記憶している。「貧しい人間の味方」であることを自任している人たち、あるいは「あらゆる差別を許さない」という生き方を人にも教え、自らも実践しているところの人たちにして、最後にはそうした差別にしがみつくことを通してしか自分が自分であることの確信を得られないという人たちの事例が、往々にして見受けられるのである。世の中に存在する差別の中で、そうした差別ほど根深く強烈なものは他にないと私は思っている。戦争というものは一握りの支配者の利害のために貧しい人間同士が殺し合いをさせられることを本質としているわけであるのだけれど、最も貧しい人々ほどその戦争に積極的に協力してしまうような事例がなぜ生み出されてしまうのかといえば、結局その人たち自身の中にあるそうした差別意識を支配者たちからいいように利用されてしまっていることの結果に他ならないということが、言えるのではないだろうか。「自分(たち)は、あいつらとは違う」「自分(たち)だけは、ああはなりたくない」という「ゆがんだ誇り」を「守り」続けることの中にしか生きることの意味を見出せなくなってしまった人間たちが、究極的にはどんなに残忍な存在になってしまうかということの最もグロテスクな事例を、私は2024年5月現在、パレスチナにおいて人類史上例を見ないような虐殺をほしいままにしているイスラエルのシオニストたちの姿の中に、まざまざと見せつけられているような思いがしている。そんな歴史の繰り返しは、絶対に「終わり」にさせられなければならないのである。

高山にくらしているも
たにそこにくらしているも
をなしたまひい

高山に暮らしているも
谷底に暮らしているも同じ魂

おふでさき13-45

せかいぢう
いちれつはみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや

世界中いちれつはみな きょうだいや
他人と言うは さらに無いぞや

おふでさき13-43

幕末から「明治」へ、封建主義の時代から帝国主義の時代へという日本の歴史の最もドラスティックな転換点において、上のような言葉で「すべての人間が平等にたすけあって生きること」を説いたとされている中山みきという人も、心の中では結局「乞食」と呼ばれる人たちのことを差別していたのではないか、ということに、私は長いあいだ幻滅を感じていた。小さい頃から身の回りにあった「天理教」というものは「何」なのだろうかということを「ちゃんと」知りたいと思った時期が若い頃にあって、それで手に取った「稿本教祖伝」の中で「乞食はささぬ」云々の記述にぶつかり、「何だこれは」と思ってそれきり見向きもしなくなったまま、ずっと過ごしていたのだった。

けれども、彼女が「これからの自分はたすけ一条に生きる」ということを周りの人々に向けて宣言した40歳という年齢に自分自身が差しかかるにつれ、やはり中山みきという人ほど「立派な生き方」を貫いた人に、自分は他のどこでも出会うことはできなかったということを、最近の私はつくづく実感させられるようになってきている。それと同時に、数多く様々な形で伝えられてきている彼女にまつわる伝承の中で、何が本当の彼女の姿を伝えるものであり、何が後世の人間の手によって歪められた姿を伝えるものであるかということについても、ある程度「見分け」がつくようになってきたことを感じている。それというのは、彼女の教えを歪められたまま伝えようとする人々の中にはどんな利害や思惑が働いているのかを実感を通して理解できるようになってきたこと、言い換えるなら自分が単純に「年を重ねてきたこと」の結果なのだろうと思っている。

「自分は『乞食』とは違う」という「誇り」にしがみついてしか生きて行けなくなってしまっているような人に対して、中山みきという人が私の信じるような人であったならば、そんな「心のほこり」は払ってしまえ、と教えていたに違いなかったのではないか、と思う。もとよりそういった伝承は、直接的な形では何も残されていない。けれども彼女が残した言葉、そして当時の彼女を知っていた人々の様々な証言から総合するならば、中山みきという人がどのような形で自分の生き方に「筋を通して」きたかということは、おのずと浮かび上がってくるように思われるのである。

そのように彼女がどんな弾圧や迫害に遭っても曲げることなく貫き通してきた「筋」を、言い換えるなら中山みきという人が人々に伝えようとした教えの「教理」と呼ぶべきものを、私は彼女の伝記を書きあげる作業を通して、改めて明らかにしてゆきたいと考えている。それは私が私という人間を私たらしめてきた私につながる人々の歴史の中で私として生きてゆくために、必要な作業なのである。というわけで次回に続きます。

サポートしてくださいやなんて、そら自分からは言いにくいです。