存在しない小説の一幕

「もーーーーりセンセっ!!」
 他に人は誰もいない静まり返った廊下で、モリの背中に向かって誰かが大きな声を出した。
 廊下の一端、出口の方へと歩いていたモリは少し立ち止まってから、振り返って自分に声をかけた相手を見た。彼の知らない女学生だった。
「君は?」
「センセ! こんにちは!」
「どうも。こんにちは」
 彼が挨拶を返すと女学生は少し笑った。その笑顔のまま距離を詰め彼女は問いかけた。
「センセ、私のことわかる?」
 モリは僅かな時間黙考する。彼女の質問が「何故このタイミングで声をかけたのか」を問う遠回しなクエスチョンでなく、言葉通り「モリが彼女のことを知っているか」を問うものだと彼は判断して、回答を口にした。
「水曜三限の、計算機科学Aの、いつも後ろの席で喋っている女性グループのひとり」
 その答えは具体的に氏名を指摘しないが、それでも女学生は満足して頷いた。
「せーかい。よくわかったね、私の顔別に普通なのに。そんな印象残ってた?」
「顔はわからない」と茂里は言った。
「じゃあ、なんで?」と女学生は聞き返す。
「君に声をかけられて僕が振り向いたときに得た情報はふたつ」
 数学の証明でステップするように彼は喋り始めた。
「ひとつは君が女性だということ。もうひとつは君が手に持っているのは『アルゴリズム講義I』の教科書だということ」
 その台詞で彼女は自分の右手が持っている青い表紙の本に目を落とす。
「『アルゴリズム講義I』は学生の間で単位取得が容易なことで有名なくらいだから、落第して再履修している可能性は低い。だからかなりの確率で君はJ科の二年生」
 女学生は「ほう」と息を、少し芝居がかった調子で漏らした。
「J科の二年生が僕を知る機会は高確率で水曜三限の講義『計算機科学A』だ。そしてJ科は女性が少ない。『計算機科学A』を受講している学生で女性は数名しかいないし、その座席の位置は二極分化している。即ち、毎回質問をする前列に座る女性一名と、毎回講義の最中後列で雑談している数人のグループ。人の顔を記憶するのが苦手な僕でも、講義のたびに質問する学生の顔は覚えている。そして君は彼女でない。だから、」
「だから、わかったんだ。すご、名探偵じゃん。金田一? 江戸川?」
「モリだよ」
「それは知ってるって」
「いいや。多分だけど君は間違っている」
「なんでよ、森先生でしょ? モリセンって呼んでる男子もいたね、そういえば」
「漢字は?」
「ん? 木が三つ。小学一年生で習う一番画数が多い漢字」
「はずれ」
「ええ!?」
「茂る里と書いて茂里。珍しいから、音だけ聞いた人からよく間違えられる。というか音だけ聞いて当てた人はいないな、今まで」
「マジかあ。そりゃ反則でしょ」
「学生ならシラバスで僕の名前を見る機会はあったはず。大学の掲示物だってある。反則とは言えない」
「じゃなんで私が勘違いしてるって当てられたの?」
「君が、斜め読みが得意そうな部類だと思ったからだ」
「褒めてる?」
「オブラートに包んだ」
「茂里センセ薬学科だっけ?」
「それは薬包紙。あと僕は情報工学科」
「そっかそっか、あはは! じゃなきゃ私なんの話をしにきたんだって感じになっちゃうね」
「で、何の用?」
「やっと本題だ! ええっとね――――」

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