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240616_記述011_IE-NIWAについて⑧

今日は近所の本屋イトマイさんにて記述をスタートさせています。書き終わるタイミングは家かもしれません。


さて、IE-NIWAについての記述。

はじめに庭づくりを自分たちでやってみようとした時、庭と言ってもただ綺麗な縮景の眺めを楽しむだけのものでは何か物足りない気がしていた。これはあくまで個人的なイメージでしかないのだが、ごく一般的に浸透している認識として、庭と言われるものはどちらかと言うと景観のための静的なもの、つまり維持されうる景色という役割を担っていることが多いような気がしていた。もちろん前述のように庭は屋外環境を舞台にしているため人間が完全にコントロールが出来ないことを誰もが理解しているはずだが、それでも何らかの欲望なのか、静的なものとして庭を捉えようとしていることが多い印象だ。それは景色や風景が環境的・空間的な総体であるにもかかわらず、それらをモノのように扱っている感覚に近いのかもしれない。モノは物理的で明確にアウトラインが存在する。そういうものは大抵の場合は加工できて比較的コントロールが可能である。はじめの庭に対するもの足りなさは、モノと同じように扱っていることへの違和感だったのかもしれない。

もっと庭にも活躍して欲しいなと思っていた。好きなモノたちで形作れるインテリアだけではなく、もっと不自由さのある困難な環境である庭にもそれらとは別の面白さを同時に発揮してもらいたいと思っていた。例えば、敷地の中に建つ建物と庭の割合が1:1だとしても、その重要度は面積的な割合と関係なく圧倒的に建物側に大きく振れている。現代人が上手く庭たちに活躍の場を与えられていない。もっとたくさんやれることがあるはずなのに。
個別のアイデアはたくさん持っているのにそれらの活動が全部バラバラに行われている。BBQ、畑、日光浴、サウナ、遊泳、ヨガ、展示、制作、料理などやることはたくさんある。発想次第ではどんなことでも出来るはずだ。ただ、これらが別々のコンテンツとして分離している。もっといろんな活動が埋め込まれているような、空間へと統合されていくような意識がありながら、それでも尚、完成され切っていない手入れの余地のあるような庭に。そのように積極的に使われるような生き生きとした庭はあり得ないだろうか。

国宝文化財などによくある話だが、その価値の高さから維持保存が最優先され本来の目的用途として使われないことがある。使われるために作られたモノたちは現代では歴史的に価値があると認定されると使われることなく透明な箱に閉じ込められ不変の存在として凍結される。それを外側から見るということが唯一の接触だ。でもしかし、それは保存されているモノにとって嬉しいことなのだろうか。モノは人間と同じような生体構造を持って生きているわけではないが、モノにも人間と同じように喜びの主体性あるのではないか。

庭にもそれと同じようなことが考えられるかもしれない。庭という空間的な枠組みにもある種の主体性が存在すると仮定して考えてみよう。
庭が喜ぶ状態とは何か。これもモノと同じようにまずは使われることが大切なのかもしれない。庭に対して理想の景色・風景を維持保存するために手入れをすることは国宝文化財における不変存在としての凍結と似ているような気がする。実際には生物ではないそれらをまるで生き物のようにコミュニケーションをとってみる。庭が喜ぶように使ってみる。庭が気持ちいいと思ってくれるように手を入れてみる。庭が使われることは庭と遊ぶことに近い。「素材の声を聴け」と建築家ルイス・カーンは言ったがこれに近しいことを言っているのかもしれない。

庭がたくさん使われることが必ずしも良いわけではない。人間も同じでたくさん遊べばいいわけではない。遊びたい時に遊べば良いし、話したいときに話せばいい。一方的な価値の押し付けでもない。放置して無視するわけでもない。適度な距離感の中でコミュニケーションをとることが庭という空間においても同じく大切なのだと思う。

庭側に主体性を立ち上げてみる。
もしかしてその時には庭からたくさんの事を教えてもらえるかもしれない。


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