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『捌く-Sabaku』を観て

先日は久しぶりに劇場で舞台を観ました。
akakilikeの『捌く-Sabaku』
公演自体は1週間前に観たものになりますが、一旦熱を冷ましてから考えてみることにしました。

倉田翠さんの作品は初めて観ました。
何の事前情報も入れずに挑んでしまいましたが、大変楽しめました。

作品自体はめっちゃざっくり言うと、たくさんの男たちが一人の女としての鹿?の周りを各々が自由にバラバラと動き回って微妙に関係付けられながら、ずれていきながら踊っているダンス作品でした。所々に性的な描写もあり、複数の男が一人の女をレイプするという事件がモチーフにされていたようでした。まあただ、それ自体の意味について私があまり言及する必要はなさそうなのでここでは書かないことにします。あくまでこれはモチーフとして捉え、作品の本質は別にあるのではないかという考えのもとスタートしてみます。

いろんなキャラクターの男性が非常に自由に動き回っているように見えるのですが、関係付けられ方を見る限りとても緻密に構成されていると思います。何かとは無関係で単なる個人として動き踊る人に対して急接近して関係を始める瞬間があったり、またその関係性が継続するわけでもなく突然切断されて別の誰かと関係が始まったり。ちなみに具体的に関係というのは追いかけたり、会話したり、慰めたり、近づいたりといろいろです。そういう人が10人ぐらいと複数人動き回っているのでそれぞれ全ての関係性を把握することはできません。明快な構成と言えば、中央に手術台のような台に横たわる女の周りを踊っているということです。中央という配置的な中心性は設定されつつも、実際に動いて踊っているのは周りの人間たちでそちら側に着目するのであれば中心の周縁に複数の中心が動き点滅しているとも言えるのかもしれません。
ダンス作品だからなのか割と音楽も入り込んできます。音楽については私は詳しくはないのですが、選曲もかなり突飛で文脈と無関係に挿入されているという印象でした。いくつかかかった曲の中でも演出として印象的だったのは、非常に崇高な音楽とともに中央の女が立ち上がるシーンです。
面白いなあと思ったのはバラバラな周縁だけがあるわけではないということです。常に中心は存在しているが、普段は目立たずにずっと横たわっている。忘却されていた中心が時たま完全には忘れ去られぬようにふと立ち上がる。普段の自由の状態が、ある中心の存在をシンボライズさせられることでそれを裏付けられているかのような、そんなシーンがいくつか挟まれていました。



公演終了後にアフタートークがあった。(かなりハードな内容で疲れていたが頑張って聞く。)話を聞くところによると、どうやら倉田さんも上で書いたような関係性について「だって現実はこうなんだ」というように話していた。(もちろんもっといろいろなことを話されていた。)確かに現実世界ではバラバラの人間が気分で引っ付いたり離れたりとテキトーな関係性の中で生きてるし、平穏に暮らしてるかと思えば災害や戦争のような大きな流れに飲み込まれると今まで関心を寄せなかった中心性について言及し始める。

で、私自身の問題としてはもう一度作品的な、表現的な展開を考えていきたいと思う。「現在の世界」を作品に投影すること。作者の意図は分からないが、それはもしかしてある意味で現在の肯定とも言えるかもしれない。それとも現在に対する皮肉だろうか?舞台表現自体が面白いという事実とは別に、「現在世界とはこうだ」とありのままの状態をダイレクトに表現することは積極的な創作になり得るだろうか。仮にだが、現在世界に対して皮肉の笑いとして作品が作られているのだとしたら。

これは自分自身も時々やってしまうことがあるから考える良い機会となった。自分に向けて、このような創作態度について改めて考えると単に自身の世界への悲観的な眼差しを見せつけているだけではないだろうか。作品表現はアイロニーとして作られるのではなく(ただし、プロセスにおいての批判は創造のためには重要)、やはり勇気や希望を与えるようなものになった方が良いと、すごく単純に思った。頑張ろうと思える、気持ちのよい作品。この作品を見たから明日作りたいと思えるような作品。すごく普通の帰結となってしまったが、とても重要なことのように思う。明るい創作をしていきたいと思う。

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