死生観について

結論はいつも同じ「健康第一」

生と死を同時に経験して

3ヶ月という短い期間に娘が産まれ、知人が亡くなりました。
これから隆盛を極めていくであろう生と近い将来必ず失われていく死。この2つをほぼ同時期に経験したことで自分の中でこれまでにない感覚や感情が湧いてきました。そして、やはりいつもと同じく「健康が大事だな」とも再確認。
だからなんだという内容なので誰にも得はないと思います。自分の心の整理のような感じです。吐き出さないと何もできない気がしています。

結論はいつも通り「健康第一」

産声を上げた子を見送る悲しみ(想像)

だいぶ落ち着きましたが(一応)コロナ禍ということもあり、出産立ち会いは生まれる直前から。でもその瞬間は経験することができました。
体長50cmの小さな命がそこにあること。そして自分の血を継ぐ子であることはなんとも不思議で尊い。尊い、という感情?と言っていいのかわかりませんがその程度の語彙力しか持ち合わせていないのでそう言っておきます。

産前、特に直前まではそれなりに父親的なことをしていたとは思いますが実際に目の前にいる呼吸とともに胸が膨らみ、体温のある我が子を抱いていると現実感が増してきます。
より父親の自覚が出てきたということなのか。道路で歩いている時に後方に注意する頻度や危なそうな箇所に目を向けることが増えた気がします。子を守る野生動物の気分。

SIDS(乳幼児突然死症候群)や首の座らないグラグラ・フニャフニャな身体に慣れないながらも懸命に生きているその命の重さを感じながら日々を慌ただしく過ごしています。

今回の知人の死で思ったことは、誰にでも親がいること。すでに死別していたとしても親がいないことには子は生まれません。通常の生命の営みであれば親が先に亡くなり、子がその次。そうじゃない生命はほとんどいないのでは。それが命の循環。今回の場合、知人のご両親がご健在かどうかはわかりませんが若くして亡くなったということでまだご存命な可能性が高い。
そうなるとご両親は生命の産声を耳にした、もしくは目の前にした瞬間とその命が吹き消された人生の最初の最後を経験した、ということになります。

娘が生まれるまではこういった話を聞くと「それは大変でしたね」と言葉は口から出るものの、正直よく分からないので悲しみ、嘆きなどは出ているような出ないような他人事の状態。しかし、いざ命のスタートとフィニッシュを同時期に経験するとより深く想像できるようになりました。特に親としての目線で。

あまり考えたくないことですが生まれた直後に不慮の事故や病気で亡くなってしまうならばまだ一緒に経験した時間や与えてもらった物事が少ないため「悲しい」という感情はもちろんあるものの単純な過ごした時間の短さから精神的な立ち直りはしやすいのでは、と今のところ思っています。(実際にはわかりませんし、わかる状況になりたくありません)

子がハイハイをする、立ち上がる、歩く、小学校、社会人と年をとるにつれて親として過ごしてきた時間が圧倒的に長くなります。本来、そのまま子に看取ってもらうのが理想ですが全てそういくわけではない。

先の知人の例を自分に置き換えてみます。子の生と死を経験する。
これほど悲しいことはないと思います。悲しい、という言葉以外になんと言えば良いのでしょうか。今、この文章を打ちながら少し泣いています。(この文章を数日に分けて書いていますが書いている最中目に涙が浮かんで進みません)

嫌な想像ですが、実際あり得る話です。

生を正しく全うすること

長生きしたいとは毛頭思っていません。むしろ人生は四苦八苦。苦しみの連続とさえ思っています。もし僕一人で生きているのであればいつのたれ死んでも良いのですが有難いことに両親も元気に生きてます。

つまり、今現在僕は親でもあり子でもある。上下から挟まれている状態なわけです。両親ー僕ー娘。
先に述べた悲しみをわざわざ両親に味あわせたくないので、両親よりも先に死ぬわけにはいかない。そして、娘もしばらく1人立ちすることもないので生きなければならない。

これはmustです。した方が良い、ではなく「しないといけない」です。普段「絶対〇〇しないといけない」と断言することは避けています。断言することで他者の思考を阻害することにもつながるのであくまで強く推奨する程度にしています。(ビジネス的には「〇〇しなさい!」と声を大にした方が効果的なのもわかっています)
それでもこの件に関しては「親よりも絶対長く生きないといけないし、子が自立するまで絶対死んではいけない」とあえて言います。

これを生を正しく全うする、と言っても良いかと思います。生命も森羅万象、生まれては消える。それが自然。

他者のための健康でもあり自分のための健康でもある

こうなるとそれなりに生きないといけないのでやはり健康であることは必要条件に入ってくる。甘いものガンガン食べてもお酒ガブガブ飲んでも健康と生を全うすることが保証されているなら僕は欲望に塗れます。残念ながらそうもいかないのが人生。
中には破天荒な生活をしていても100歳を超える方もいますがそれはレアケース。自分に当てはめるよりも無難に健康を目指す方が生を全うできる確率が高い。

で、生を全うするために適度な運動をする、適度に節制する、ストレスを溜めない、などいわゆる健康的な生活をするようになると当然健康になりますよね。
健康になると日々の生活が充実する。これも異論はないかと思います。

ここで考える。

生を全うする理由が親と子のため、つまり他者が最優先だったのがいつの間にか自分のためにもなっている。健康であることは自分だけ気持ちよく過ごすためのものではなく、家族や友人も気持ちよく過ごしてもらうための要素でもあるということに気づく。
これは単に長生きすることを指しているのではなく、いわゆる「健康寿命」のことでもある。長生きをしていたとしても介護が必要な期間が長かったりするとそれは生を全うするとはちょっと違う。そうではなく、自立して過ごす期間を人生の中でどれだけ長く持てるかが重要。「ピンピンコロリ」ってやつです。

独りよがりで自分さえ健康で良ければ良い、という利己的な考えならばその時点で不必要なストレスを自らかけている状態でもある。(闘争反応でアドレナリンを不要に出しているイメージ)
この場合、おそらく生を全うする前に何かしらの疾患に罹る可能性が高い。自らリスクを上げている状態。
そうではなく、他者、特に親と子のために生を全うすることを主にすること。つまり「利他」の気持ち・精神で健康に取り組むことが結果として自分に返ってきて『良い人生だったなぁ』となるのではないかと思いました。

利他的な思考・行動が生を全うするための健康の要素

最終的には「健康第一」というゴールは相変わらずですが、今回の経験でさらにこの感覚が強固になりました。

まだ死ねませんし死にません。

生きねば。

今後もより良質な発信をしていくためのサポートをできる範囲でお願いします!