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雑誌を作っていたころ010

原稿用紙


この原稿用紙は、現在の話より後の青人社時代のもの。

この当時、原稿は原稿用紙に手書きするものだった。まだワープロもパソコンも登場しておらず、素人が手を出せる組版のシステムは世になかった。

なぜ原稿用紙に書くかといえば、「字数が数えやすいから」という理由が第一で、その次が「植字工や写植オペレーターが見やすいから」となる。

われわれ編集者は、原稿用紙そのままではなく、「赤入れ(朱入れ・原稿整理とも)」という作業をほどこしてから現場に入稿した。

上の写真を見ればだいたいどんなことをしているかがわかるだろう。使用する活字の大きさや種類を指定し、文字と約物(記号の類)の区別を明確にし、字詰めや改行を指定する。小規模な修正もここで行う。

さらにグラフィカルな雑誌の原稿とかでは、レイアウト用紙に指定された字詰め・行数で原稿用紙に書いたりした。そうすれば、文字の過不足がすぐわかるからだ。

この時代は、活版印刷がほぼ全滅し、写真植字が全盛になっていた。しかも手動写植機から一部が電算写植機に移行していたころだ。

写植、つまり写真植字という技術は、活字を刻印した文字版に光を当て、印画紙に露光することで印刷原盤のもととなる版下を作るものだ。写真技術を使っているので、文字の大きさが自在に変えられるほか、特殊なレンズを使って文字を平たく潰したり、縦に伸ばしたりすることができた。

手動写植機はただ印画紙に露光して版下を作るだけなので、全面直しが出るとやり直しになる。しかし電算写植機は印字データを記憶しているので、直しや再利用が簡単にできる。

当時、平凡社では百科事典の制作に電算写植機を導入していた。そうしておけば、百科のデータを再利用して別の本がかんたんに作れるからである。

そんな写植の世界だが、それからわずか20年ほどでDTP(デスクトップパブリッシング=パソコンを使った組版)に駆逐されてしまう。ぼくを含めてそんな未来を予想している人は、この時点ではいなかった。

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