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直観 般若と菩薩

始祖マハーヴィーラの思想が2500年後の現代まで、インドから出ることなく、ほぼそのままの形で残されているジャイナ教に対して、インドを離れ中央アジアや西アジア、東南アジア、中国、日本まで広域に広まった仏教では、ゴータマブッダの教えは様々な形に変遷しながら伝わっていきました。
始祖入滅後100年にして、仏教教団(サンガ)は「根本分裂」を起こして上座部と大衆部の二派に別れ、さらにその100年後には20の部派に「枝末分裂」していきます。
各サンガは教理の正統性をめぐって論争を繰り返していましたが、西暦紀元前後になりサンスクリット語で「大きな乗り物」という意味のマハーヤーナ(大乗)仏教が成立すると、この新しい立場から見たそれまでの部派仏教はみな、利己的で小さなヒーナヤーナ(小乗)とされました。
出家者個人個人が修行を通じてアルハット(阿羅漢 あらかん)となることを目指す小乗に対し、大乗では自分ひとりの悟りのためでなく、多くの在家者らを一緒に乗せてニルヴァーナ(涅槃/彼岸)へ運ぶことを根本課題としました。
この大乗仏教の思想が説かれた最初の経典群は、総称して『般若(はんにゃ)経』と呼ばれています。

「般若」とはパーリ語のpaññāパンニャーやサンスクリッド語のprajñāプラジュニャーに由来する言葉で、道理を見抜く深い智慧の事をいいます。
大乗以前の部派仏教においても、般若は「物事の本質を理解し無明の闇から脱出するための智慧」として考えられていましたが、大乗では「一切の諸もろの智慧の中で最も第一と為し、無上、無比、無等にして、更に勝れる者なし」といい、大乗菩薩の求法する究極の智慧としています。
この般若の智は分析的な理解である「分別智」に対して「無分別智」とも呼ばれ、日本においては直接的かつ本質的な理解を指す「直観智」と訳されて、「直観」という言葉の語源となりました。

ブッダ(仏/如来)は一切の物事について完全に知るサバニャ(一切智)を備えているとされていますが、大乗において般若の智は一切智と同等であるとされ、「般若波羅蜜 はんにゃはらみつ」の成就により誰でもブッダに達することができると説かれています。
「波羅蜜」とはサンスクリッド語のpāramitāパラミータで、完全性を意味し、大乗ではブッダになるために菩薩が行う修行のことを言います。
波羅蜜には6つの修行徳目があるとされ、①めぐみを施す布施波羅蜜、②いましめを守る持戒波羅蜜、③耐え忍ぶ忍辱波羅蜜、④つとめはげむ精進波羅蜜、⑤瞑想する禅定波羅蜜、そして⑥これら5つの波羅蜜によって全ての事物や道理を見抜くための深い智慧を得て悟り目覚める般若波羅蜜です。
般若波羅蜜は菩薩行の総まとめとされる「智慧の波羅蜜」であり、波羅蜜を完成へと導くためのコンセプトと実践法を事細かに説く莫大な量のマニュアル・スクリプトが作られました。
そしてそれらのマニュアルファイル群をまとめるフォルダのタイトルとして『般若経』とつけたのです。

菩薩とはbodhisattva(菩提薩埵 ぼだいさった)の略語で、元々は「悟りが確定している者」として、成道(悟りを得る)前のゴータマブッダに対して使われた言葉でしたが、大乗では「悟りを求める者」として大乗修行者のことを指して用いるようになりました。
さらに、成道してブッダにもなることができるにもかかわらず、衆生を救済するためにあえて輪廻の世界にとどまり、彼らに対して慈しみ憐れむこころを持って「利他行」を行う者という理想の菩薩像が形成され、観音、文殊、地蔵、普賢、弥勒など、数々の魅力的な「大菩薩」キャラクターたちが生み出されました。
大乗は別名「菩薩乗」とも呼ばれるように、これら大小の菩薩たちを主役群として綴られた思想であり、物語に他なりません。
ひとつの大きな船に乗った菩薩たちが主人公となり、般若波羅蜜という「チエチエの実」を求めて「友情・努力・勝利」のストーリーを繰り広げる『ONE PIECE』のような世界が、大長編シリーズ『般若経』であり大乗仏教の原型なのです。

『西遊記』の三蔵法師として知られる玄奘(げんじょう)が、インドから持ち帰って漢訳した『大般若波羅蜜多経』は全600巻、字数にして約500万字もの超大作経典です。
尾田栄一郎の『ONE PIECE』は2023年10月現在では106巻まで刊行されていますが、『大般若』にはまだまだ到底及びません。
この膨大な経典をすべて読み上げるには延べ600〜900時間、ひとりの僧が飲まず食わず眠らずに読み続けたとしても、まる1ヶ月間以上はかかります。
日本の歴史上実際に行われた「大般若会 だいはんにゃえ」法要では、60人、150人、あるいは600人の僧を集めて全巻読経したという記録がありますが、現在では全ての経文を読むのではなく転読(経を転がし広げながら経題だけ読み上げる)手法で済ませているようです。

この大般若経のエッセンスを、わずか300字弱にまとめて表現しているのが、日本仏教ではお馴染みの『般若心経』です。
この「般若の神髄(心)の経典」では、観自在(観音)菩薩が般若波羅蜜の修行を通して見極めたことについて、小乗の智慧を代表する弟子であるシャーリプトラに対し、その要点を極限まで簡潔にした言葉で語ります。
観自在は菩薩仲間たちの中でも「観」の瞑想に飛び抜けたキャラとして知られ、般若の智慧で直観的に悟った宇宙の本質としてのシューニャ(空)の概念を、マントラ(真言)という究極の言葉で表しています。
観自在菩薩が『般若心経』で語っているマントラは、成道し仏となるために必要な般若波羅蜜多そのものなのです。
次回はこのマントラについて書きたいと思います。

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