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ブローデルの余滴。マンズィーニからの拡がり。価値循環現象の人類学的アプローチ。

安西さん、このCOMEMO記事、ひじょうにおもしろかったです。

昨年来、安西さんとはいろんなテーマでオンライン談議をしているので、どの話をしたのか、いい意味で渾沌としています(笑)この記事を読みながら、やはり想起したのはマンズィーニの『日々の政治』であり、またマンズィーニが影響を受けたというアーレントでした。

このマンズィーニの話とブローデルがどうかかわるのか?マンズィーニはブローデルを参照しているわけではないのに。そこらへんを想い起こしつつ、まとまりなく書いてみたいと思います。

さて、文化の読書会で最初に読み始めたのはブローデル編の『地中海世界』でしたね。

ここから1年余り、ブローデルをベースにしつつ、地中海世界を具体的手がかりにして、いろんな思索ができているなぁとあらためて感じます。

ブローデルを読んでいて感じるのは、縦横無尽にさまざまな要因を関係性のなかで捉えていこうとする姿勢です。一見すると雑学のようにも見えますが、自然地理的要因や文化的要因、社会的要因、経済的要因などをていねいに読み解いていこうとするアプローチは、なかなか容易にまねることのできないところがあります。

ただ、ここを一つひとつの事例に即して考えていこうとするとき、人類学のアプローチが参考になるのではないかと、思うようになりました。最近、人類学の研究書が数多く公刊されているようです。以前からだったのかもしれませんが。

私個人としては、以前、人類学に関心はありながらも、ちょっと遠巻きに見ているところがありました。というのは、いわゆる都市型の社会あるいは生活に対するアンチテーゼ的な色彩が濃厚に感じられて、ちょっとした拒否反応があったからです。

しかし、畏友である宇田川元一さんから教えてもらったティム・インゴルドの人類学についてはブローデルにである前から関心を持っていたので、素地はできていたのかもしれません。

ブローデルを読んでいると、そもそも資本主義と称される経済体制それ自体が、さまざまな社会的、経済的要因の時間的・空間的な絡み合いのなかで、さまざまな姿をとって現れてきたことを、あらためて認識させられます。そのなかにおいて共通している理念型が〈資本主義〉であって、純粋な資本主義が地球上に存在しているわけではありません。その点で、『物質文明・経済・資本主義』は、理念型としての〈資本主義〉と捉えられうる現象が、どのような諸要因の関係性によって生成されてきたのかを解き明かそうとするところに、その最大のおもしろさがあるように感じます。

このことを考えると、人類学的なアプローチによって社会経済を捉えていくことの意義は、やはり大きいといっていいでしょう。もちろん、人類学的アプローチといっても、さまざまなモノグラフ的研究によって逐次的に更新されているといえましょうから、それとても固定化されたものとみるべきではないと思います。

そのなかでも、これは個人的になかなかおもしろく読んでいます。↓

とはいえ、まったく何も措定しないままでは話が進みません。なので、以下のように捉えておきたいと思います。すなわち、人類学的アプローチとは、人間の生活を、そこに存在し、何がしかの関係性において位置づけられている諸要因を、まさにその関係性の動態において捉えるところにポイントがある、と。

そうなってくると、人類学的なアプローチの文献に関心が寄っていくわけです。

経営学と人類学の接点に位置するアプローチとして、経営人類学というのがあって、じつは今まで個人的には「ふーん」くらいでした。この領域を先導してきた日置弘一郎先生の『文明の装置としての企業』も、持ってはいたものの、ほとんど読まないままでした。

しかし、ブローデルを読んでからあらためて読み直してみると、これはひじょうにおもしろい。事例などは古いですが、考え方として今想定していることとも近い。

ただ、経営人類学という名称の最近の文献は、どちらかというと会社における神話や経営理念などに焦点を当てることが多いようです。
また、最近こういう本も出て、これも興味深いです。まだちゃんとは読めていませんが。

同様に、玉野井芳郎に着目するようになったのも、ある意味でブローデルに起因するといえそうです。玉野井芳郎の『エコノミーとエコロジー』は復刊の折に購入したまま、これまた読みもせずに書架に備わったままでしたが、それと『市場志向からの脱出』を読んで、いろいろと学ぶところがありました。

オーストリア学派経済学といえば、新自由主義の一派であるかのようにみられがちですが、始祖たるメンガーが主著『国民経済学原理』の第2版で、死後に息子によって出版された『一般理論経済学』の冒頭において、欲望に関する議論を初版に比べて明らかに深く掘り下げているところを、カール・ポランニーが着目している点に、玉野井芳郎は触れています。

カール・ポランニーはいっときスターリン体制を支持していたようで、その点で私はすごく距離を置いてしまうのですが(暗黙知の議論で有名な弟のマイケル・ポランニーは、兄に対してこの点でひじょうに批判的であったようです)、経済人類学を切り拓いた点では興味深い研究者です。

私自身は、イデオロギーの如何を問わず、全体主義的なにおいのする考え方に対する拒否反応があります。なので、よく採りあげるニックリッシュというドイツの経営学者が用いた経営共同体という概念に対しても、すごく慎重です。いかにニックリッシュが個人の自由を重視したとしても、少し逸れればいともたやすく全体主義の流れに呑み込まれてしまうからです。ニックリッシュを現代に活かす際に、この点はかなり慎重に取り扱っているつもりです。

最近、↓のような興味深く、また対談形式なので読みやすい文献も出てきました。これは、ちょっとAmazonのリンクではないかたちで紹介したい気もしましたが(笑)

ブローデルを読み始めたとき、こういった動向を意識したというのは、まったくありませんでした。潜在意識的にあったとはいえるかもしれませんが、顕在的ではなかったです。

安西さんと審美性の問題などを意味のイノベーションの流れから議論させてもらって、いわゆる経営をめぐる現象を考えるとき、この審美的側面からの考察がほとんどなかったことに想い到ったのが直接的なきっかけでした。

そのあとに、↓の本で「モノと芸術」という章を読んで、議論としてつながってくるなぁと思うようになりました。

ブローデルの著述それ自体からは、美的判断などの議論はあまり窺われませんが、当然ながらつながってくるでしょうし、もしかするとブルデューの『ディスタンクシオン』などは、その一つの成果なのかもしれません。

いずれにしても、19世紀から20世紀という200年余りのあいだ ――まさに、ブローデルが採りあげた時代のあと―― は、専門への純化こそが何より重視された時代でした。それゆえに、学際的であること、あるいは学的知見の重層性 / 重畳性が(文言上はともかく、実際には)優位に立つことはなかったように思います。

しかし、21世紀も20年を過ぎ、この200年余りの進み方が行き詰まってきて(という惹句も、今まで何度も何度も出てきていることには留意したいところです)、専門性と重畳性(縦横断性)の循環こそがポイントになってきているのは、どうも確かのようです。冒頭にシェアした安西さんのCOMEMO記事も、その線上で捉えると、なぜこういった傾向がいよいよ顕著になってきたのかもクリアに浮かび上がってくるのではないかと思うのです。

ブローデルを読んでいて、私自身が学んでいるのは、「歴史は“革命”だけで動きはしない」という点です。もちろん、溜まりに溜まったエネルギーが、何がしかの着火によって一気に流れ出るということはあります。それを“革命”と呼んでもいいわけですが、しかし、それだけですべてが一挙に「革まる」わけではないというのが、ブローデルの歴史把握だと、私は考えています。

その意味において、まさにエコシステム / 生態系として捉えるということ、しかもそれは時間と空間の両側面におけるつながりによって、つねに動的であること、ここにブローデルからの学びがあるということは、はっきりといえます。これはまだ途上というか、今まで考えてきたことの延長線上には位置づけられるのですが、価値循環という現象をブローデルのアプローチから学びつつ、捉えていくということが課題になってくると思っています。

同時に、このアプローチは方法論的な基礎を持っておかないと、ほんとに雑然とした知見の羅列に終わってしまいかねないので、そのあたりも留意したいところです。

また、いろいろ議論させてください。

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