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思慮から抑制へ。自律という考え方の原点。アリストテレス『ニコマコス倫理学』をよむ(7)。

アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという試み。

今回は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の第7巻。毎回注記してますが、巻といっても、現代的な感覚でいえば“章”に近いです。今回は、抑制あるいは節制をめぐる巻。ちょっと込み入った議論ですが、いわゆる〈自律〉にかかわっているとみることができそうです。

読書会での設定文献は↑の翻訳だが、最近になって以下の文庫版の存在も知りました。ここでは西洋古典叢書版を用いますが、たまに光文社古典新訳文庫版を参照することもあるかもしれません。

今回は、訳文に関して、光文社古典新訳文庫版も参照しています。


摘 読。

前回の第6巻については、noteにまとめる時間を取れなかったのでオープンにしていないが、徳、とりわけ思慮をめぐる議論が展開されていた。第7巻では、これを承けて、この巻では〈抑制〉ということが議論される。第6巻と第7巻は、セットで考えるのがよさそうだ。

この議論のなかで意外とめんどうなのが、似ていて微妙に異なる概念が存在しているという点である。例えば、「抑制がある/ない」「柔弱である」「軟弱である」「忍耐強い」「放埓である」「思慮深い/浅い」などなど。ここで焦点が当てられるのは「抑制がある/ない」という言葉である。それらを列挙したうえで、この巻の第2章では、「抑制がある/ない」という問いが論点として立てられる。とりわけ、ある種の抑制のない人々としての「限定抜きに抑制のない人」が一つの難問として設定される。

これを踏まえて、「抑制がない」とはどのような状態をさすのかが論じられる。その際に4つの段階が踏まえられる。(1)かかわる対象の違いにあるのか、かかわり方の違いにあるのか、(2)あらゆる種類の事柄が抑制のなさと抑制の対象になるのか、(3)激情や性愛への欲望など、感情によって身体状態も変えてしまうような性向の状態のときに、知識の持ち方やその発揮のされ方にどう影響してしまうのか、(4)近くによって惹き起こされる欲望に対して、正しく分別できるというのはどういうことか。以上4点のうち、(3)と(4)は山縣が本文から酌んでいるので、読み違いの虞もある。とはいえ、基本的にこの捉え方でずれてはいないだろう。

放埓であることと抑制がないことは、似ているようにも思われる。しかし、アリストテレスはここを整理する。そもそも、この議論は快苦にかかわっている。その際、人間にとって必要不可欠な身体的快と、必要不可欠というわけではないが、それ自体としては望ましい快に分ける。そして、この前者の身体的快楽に関して、選択によらず快楽を過剰に追求し、また選択と思考に反して過剰に追求する人、また苦痛を過剰に避ける人、こういった人を「抑制がない人」と呼んでいる。一方、「放埓な人」は選択したうえで快楽に溺れるという点で、「抑制がない」ということとは区別される。

さらに、激情や自然な欲求などの場合は抑制が利かなかったとしても赦されることが多いのに対して、欲望に関して抑制が利かないことは、分別ではなく欲望に屈しているという点で、より醜いとされる。つまり、情動的に抑えが利かないことによる抑制のなさよりも、欲望などに駆られて企む抑制のなさがここでは難じられている。

ただ、ここで留意しておかなければならないのは、抑制があるというのは、必ずしも節制や放埓とは同じ次元で論じられないことがあるという点である。放埓とは、快楽を超過してでも追い求めること、快楽それ自体のために快楽を追求することをさす。したがって、放埓な人は後悔しない。それゆえに癒しがたいとアリストテレスはいう。かといって、快楽の追求が不足しているからといって、それが抑制あることと直結するわけではない。それは、単に苦痛から逃れるという意味での柔弱であることもある。

では「抑制がある」とは、どういうことをさすのか。それは、分別ロゴスにもとづいて行為できることをいう。分別にもとづいて選択や行為ができるかどうか、この一点こそが重要なのである。

ここから、「思慮深い」ということと「抑制がある」ということがつながってくる。これは「頭の良さ」とイコールではない。つまり、「抑制のなさも抑制も、多くの人々の持ち前の性向を超過するような事柄にかかわる」(新訳古典文庫版下巻、154頁)のであり、留まるべきところで留まることができるかどうかにかかっている。

さて、ここで鍵となるのが〈快楽〉そして、その対としての〈苦痛〉である。こういった快楽や苦痛について考察するのが、政治にかかわる哲学者だとアリストテレスは言う。なぜなら、窮極としての目的を設計するのが、政治にかかわる哲学者だからである。

快楽は、一般的に善いものとされないことが多い。しかし、すべての快楽が悪であるわけでもない。その意味において、快楽とは「自然本性にもとづく性向の活動」(162頁)と規定される。そう位置づけると、抑制ある人にとっても、つまり思慮深い人にとっても快楽は存在する。それは、放埓な人が追求するような身体的快楽ではない。快楽が意味するところは、人によって異なる。抑制ある人にとっての快楽は、身体的快楽を超えたところにある。こういった快楽は、超過というものがない。

さて、この快楽論、第10巻においてあらためて論じられるようである。ここでは、いったんこれで摘読を打ち切っておこう。

私 見。

第6巻における思慮深さの延長線上であると同時に、次巻の愛/友愛へとつながるのが抑制というのもおもしろい。抑制というとネガティブな印象もあるが、「自ら律する」ということが論じられていると考えれば、理解はしやすいだろう。

アリストテレスは、いわゆる身体的快楽に対して否定的であるようにもみえるが、それが「自然本性にもとづく性向」に反していなければ、悪とは見なしていないように、私には読めた。難しいのは、何をもって「自然本性」と考えるかである。アリストテレス自身、「放埓な人」や「柔弱な人」といったように多様な性向を持つ人間の存在を認識している。そのうえでなお、抑制があるかどうかを問うている。この巻のなかにも言及があったが、これは個別的な性格を持つ。つまり、状況規定的であるというわけだ。そのなかでとりわけ身体的快楽に関しては、自ら「ここまで」と律する必要があるというのがアリストテレスの主張である。美を感じることによって得られる快楽や知識を得ることによる学びを通じた快楽のような精神的快楽は、超過がないとされる。このような議論は、直感的にはおおむね納得できる。しかし、ある程度の共通性を前提とした議論だともいえる。そこに違和感を覚えないわけではない。

にもかかわらず、アリストテレスがここで、この快楽をめぐる議論が政治にかかわる哲学者の仕事だと指摘している点はきわめて興味深い。ここにいう哲学者とは、いわゆる現代的な職業的哲学者と同一視しなくていいだろう。そして、政治というのも現代的な意味合いとはいささか異なる。個々に(身体的、精神的な側面だけでなく、欲望や求める快楽などに関しても)異なる人間が存在しているところの〈共同体〉における目的や方針など、めざす方向性や状態を設定していくこと、それがここにいう政治である。

このようにみてくると、人間の共同/協働状態をいかにしてより「よい」状態へと促すかを考えるうえで、この〈抑制〉の議論は〈律(自律/他律)〉の議論と読むことができるし、それは明文的なルール形成でもあり、また不文律としての文化や風土の醸成の議論とも捉え返すことができるだろう。

そして、第8巻と第9巻での愛/友愛の議論は、CareやProximity, Convivialityともつながってくるような予感がある。



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