「未来」という科目が受験科目になる未来

お勉強を積み重ねた大人が起こす不可解な事件や嘘の発言。
偉い人を守るために嘘をついたら、その行為が報われる社会。
それは、(偉い人のために)努力するものが報われる社会、のあり方?

子どもたちに説明のできないニュースが多すぎる世の中、それは、模範がなく、規範が揺らぎ、未来が薄暗い社会である。

そんな中でも、希望をもって「こんな社会だったらいいな」と妄想を膨らませつつ、未来への期待と絶望の両方を考えられる子どもたちが増えること。それが僕の考える「こんな社会だったらいいな」である。

未来よりも現在に集中しよう、マインドフルネスなどのブームはそのように私たちに語りかける。なぜだろうか、それは未来の期待値より現在の価値のほうが高いからではないか。未来がよくなることを期待できないからこそ、未来よりもよい現在をよりよくしようとする。それは極めて、まっとうで、自然な選択だと思う。

だけど、僕はそこに「否」と唱えたい。未来の期待値って、どうやって考えたの?自分の頭で考えた?妄想した?何を材料に?その前提は何?...と問いたいのだ。しかし、私たちは「未来」を考えることを日々の思考の作法にはなっていない。

なぜか?学校で習わないからだ。学校で学ぶのは、国・数・英・理・社、その他実技があるが、だいたいは受験に関わる科目に力を入れている。だからこそ、学ぶ内容を変えようと、入試改革が行われているが、混迷を極めている。そして、こんな意見もあるだろう。

「私は学校で、未来のことを考えたよ。キャリア教育の授業で」

キャリアとは、社会の未来ではなく、自分の将来のことだ。もちろん、生徒の中には、自分の思い描く将来像とそれをとりまく未来の社会状況をあわせて考えた生徒もいるだろう。それは否定しないが、多くは将来を考えることにキャリア教育の時間が費やされている。

「未来なんて、不確実なことを学んで、どうせ変わるんだから、役に立たないじゃん」

そんな意見もあるだろう。それは正しい。確かに、知識は役に立たなくなるかもしれない。しかし、未来を考える思考の作法は状況が変わっても役に立ち続けるだろう。

「学校の先生には無理。社会のことについて何も知らないから」

だけど、学校の先生も未来のことに興味はあるだろう。未来のことを考えれば、公務員としての安定的な地位が、このさきも約束されていると考えられなくなり、真剣に自分ごととして未来のことを考え出すのではないか、と期待している。

そんなカリキュラム、科目名は「未来」。受験科目として必須にする大学・高校も増えるだろう(忖度した回答が出ない仕組みにしたい)。そんなことが実現される社会だったらいいな、と。

#こんな社会だったらいいな

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