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宮台真司×藤井聡「日本の劣化と大衆社会」

過剰自粛、ファクトに基づかない感染症対策が行われ人々がコロナに怯え最終的に「弔う」ということすら無くしていく。
「剥き出しの生」が重視され「人間の尊厳」がほとんど0のように扱われている。
こういう問題がヨーロッパでもあり日本では特に酷い。
まずは身の回りの中で社会というものを再構成することが必要だ。

宮台『柳田國男が"世間の話"という70年以上前の本の中で"日本人、日本には社会がない。代わりに世間だけがある"と書いている。
その意味は社会学的に言うと、社会というのはヨーロッパ的な言い方をすると自分がいる、しかし他人もいる。
自分が所属する内集団もいる。
自分が所属しない数多の外集団がいる。
全ての人、全ての集団が共通に支えられている共有財、コモンズにコミットする構えをパブリックマインドと言って、その支えているプラットフォームをパブリックと言う。
柳田國男に言わせると、それは日本人には全く無い。
代わりに存在するのは"お上の視座"だ。
お上が何とか色んな人たちの集団の間を調整してくれるからその賢明な"お上"に従っていればいい。
自分では考えない。
これが日本的なメンタリティだった。
とすると、上がクズだったら日本は終わり。
だから今の日本は終わっている
もう1つ「世間」という概念があって"自分はこれが正しいと思う"じゃなくて自分としての自分は別にして"神から見て、自然の摂理から見てどうなんだ"っていう風に、自分の直接的な思いの外側から物事を考えることが必要。
そのためには実は仲間っていう概念が日本には必要。
仲間がいると自分としての自分、しかし仲間の為に働く自分っていうのがいて、さらにその仲間の同心円状的な延長線上で初めて"世間"という概念が出て"仲間が許さない"の延長線上で"世間が許さない"っていうのが出てきて、それがパブリックと同じ機能を果たすっていうのが柳田の発想。
今、仲間っていないでしょ?
ウヨ豚(宮台用語でネトウヨのこと)を見て下さい。
ウヨ豚の周りに彼の為に犠牲になってくれるような仲間は絶対にいない。
同じように今の若い人たちって大学生レベルで言うともう友達がいないんですね。
100人いて友達がいるのは1人ぐらい。
彼らの言う"友達"は僕らの言う"知り合い"。
友達の定義は簡単で「悩みを相談できるか」なんです。
けどそうすると悩みを相談できる相手がいるのは100人に1人か2人。
さらに親友の定義も明白で「悩みを聞いたら人肌脱いで自分が犠牲になっても何とかするぞという構えを持つ奴」が親友なんですけど、親友を持ってる人間は100人いたら1人もいないっていうのが今の20歳前後の学生なんですよね。
そういう人間が神経症、不安から来る埋め合わせの反復ではない腹の底から湧き上がるような価値観にコミットできるかと言ったら、できるはずがないんですね。
親友も仲間もいない。
当然、そういう奴は恋人も作れない。
セックスする相手しかいない。
しかし、そこには絆が無い訳です。
守る存在がいないって言う時にヨーロッパの社会であれ日本の共同体であれ世間であれ、残念ながら人間は自分の損得を超えた振る舞いを出来るはずが論理的に無いんです』
藤井『やっぱり我々の時代とは随分、違うんですね。実際、僕も質的に感じるのは大学の講義のやり方を変えてないんですけど、かつてはそれなりに人気があって僕の授業を面白がる学生が多かったんですよ。
まぁ僕が書いた教科書の中身を喋るんですが話の8割はそれに幾分、付随するような話をずっとやって15回全体でこの教科書に書いてあるフィロソフィー、いわゆる思想を伝えるっていうのが狙いで僕は講義を組んでてその手の授業は皆、割と面白がってたんですが、10年ぐらい前から本当に人気が無くなって「先生、そんなんどうでもいいから早く教えて下さいよ」みたいなことになって僕の定義からすると「人間じゃないの?」って思うんですけど。
中には勿論、面白がる学生もいてそういう人は研究室に入ってきてくれたりするんですが、本当にこの10年ぐらいの質的な転換は非常に大きいような気が個人的な感触でするんですけど』
宮『同感です。僕は"人寄せパンダ"と呼ばれていて中学高校で大学から言われて講義をすることが多いんですが、中学高校だと実はまだクズは少ないんです。
自分が社会でやるべきことは何なのか、自分の損得を超えた視座から考える力があるんだけど、大学生は10年ないし15年くらいの間それが急速に失われています。
僕が見るところ大学1年生から自発的に選べるインターンシップの授業が始まるんですけど、事実上1年生から授業あるいは授業外の資格取得。
ゼミの選択も全部、就職活動の一貫になっています。
だから社会についての関心、直接的な自分の価値観から来る欲求。そういうことではなく全部「沈みかけた船の中での座席争い」の為のレクチャーとかゼミ参加になっているので大学生全体としてクズ化が進んでますよね』
藤『それは定義上、人間じゃないですよね。
だって「何かの為に」ばかりですから自分の焦点が自分の運命に向かってない訳ですよね。
座席に向かっている訳で、自分の人生をどうするかに向かっていないですから、弔う気持ちが無いっていうのと同じですよね。
人間の尊厳が無くなるでしょうから、そこに関してどれだけ喋ろうが関係ないんですね、座席を取ることには』
宮『僕は西部邁先生と上司と部下の関係だったんですね。東大の駒場キャンパスでね。
当時からよく周りから見ると口喧嘩に見えるような論争をしていましたし、ある番組で僕が西部さんを罵ったら西部さんが途中で帰っちゃうっていうこともあったりしたんだけど、楽屋に行ったら西部さんがベロンベロンに酔って待ってて「宮台君、素晴らしかったよ。これからは君の時代だ、間違いない」と言ってくれることがあった。
特に若い人に伝えたいんだけど、頭山満という
人が言ってたように「意見は意見で、お前が右か左かっていうのはどうでもいい。マトモかクズかだけを俺は見ている」と。
マトモであればそこから先、右であれ左であれ"自分を捨てて他人の為に頑張る"という利他性や貢献性を発揮できる。
ただそれを支えてくれるイデオロギーは違うかもしれないけど。
それって人間の個人的な履歴の中ではほとんど偶然によって決まってしまう部分もあるからね、それはそれなんだという発想。
頭山満の発想は西部邁さんにも引き継がれていて、その意味でイデオロギーの奴隷のような存在。
イデオロギーが違うからコイツは敵認定?国籍が違うから敵認定?「はい、即死して下さい」ってやつですね』
藤『そういう問題、ほんとに大変ですね。要するに状況的にずっと悪化してきている、と。
社会というものが無くなって世間すら無くなって友達もいない、と。
そうすると"剥き出しの生"しか無くなって、それこそ性欲とか食欲とかその辺のものしかない、と。
あと将来に対する漠然とした不安だけで生きていく。ほんとに大衆社会論が描いている最悪の末人たちに日本人がなりつつある、と。
その状況の中で社会科学っていうのはどこかで"どうすればいいか"という問いに対するレスポンスとして出てきたものですから、マルクスはマルクス。ウェーバーはウェーバー。
デュルケムはデュルケムでそれぞれ処方箋を描いた訳ですけど、日本社会の大衆社会化がここまで進んだ中でどうしていくかについて如何ですか?見通しというか…』
宮『まず大事なのはね共同体的な、つまり仲間の記憶っていうのを持てるようにすることだと思うんですね。
末人っていうのは恐らく記憶なき存在と言ってもいいと思うんです。
仲間がいない、恋人がいないという人間がまともに性欲、食欲を持てるだろうか。
結局、性欲や食欲の発露も幸せな絆の中での性関係であったり、和やかな絆のある関係の中で共に食事をするから美味しいわけです。
ところが性欲や食欲が剥き出しになっていればそれは末人なんです。
なので特に若い人の損得勘定に媚びて言うと、本当に美味しいご飯を食べたい、本当の意味で良いセックスをしたい、孤独死ではない良い死に方をしたいのならば自分が身を捨ててでも関わりたいと思える仲間関係があるかどうかに尽きるんです。
まともな人間は自分としての自分を別にして何かを背負うんです。
自己満足はそれとして横に置いて何が仲間にとっての満足なのだろうかっていう風に考えるんです。
 食事もそうで、僕は美味しいけど仲間が美味しいと感じているだろうか。
みんなが美味しいと思っていたら本当に美味しいわけですよね。
そういう意味で貴方がたった1人の人間として幸せになりたいんだとしても仲間を幸せにしなければ幸せになれない
僕が中学生向けに書いた「14歳からの社会学」っていう本があるんだけど、誰が1番幸せになれるのかって言えば人を幸せにする人が幸せになれるんですよ。
それには例外はない。
少し抽象的な話をすると、マルクスの最も重要な概念に「アソシエーショニズム」というのがある。
共同体というのは全人格的だけど自生的、自然発生的で、人為的に作れない。
それに対してアソシエーションというのは組織集団と訳されるが、全人格的ならぬ部分的な関係、だけれど人が人為的に作れる。
穴があるのかどこかというと、全人格的包括的で尚且つ自分たちで作れるようなものがない。
それがマルクスの言うアソシエーション。
労働組合や協同組合的なものと関係している。
平たく言うと人間関係、それも昔から生まれ育った一緒の関係ではなく新しく出会った、場合によっては国籍も属性も違う人間と全人格的な交流ができるっていう経験だけが次の社会を担うような人を作るんだと思うんですよ。』
藤『個人的な話で恐縮ですが、幼稚園から小学校中学校、高校大学とそれぞれの階層の中で友達を作ろうとしますよね。
その中には親友と呼ぶべき人がいて、僕はそれに相当の投資をするんですね。
時間や気掛かり、インテンションを向ける。
ある種、半ば意図的にメンテナンスをするんですね。
特に30歳ぐらいから研究室を持っていますから同窓会組織などを作ってメンテナンスをする。
そうすると僕は自分が生きている空気、それ以外の人は別ですが自分が投資をして作り上げてきたソサイエティの中ではそれほど不愉快な思いはしないんです。
でも世の中は不愉快だらけです。
クズばっかりですから、どうしようもないんですけど。
自分の周りはそれほどしんどくない、と。
きっと僕だけじゃないと思いますが、意図的な投資をしなければクズになってるんです。
ところが投資をしているのでそれなりに彼らも生きていて、それが社会に良い方向にフィードバックしていて意外とマクロ政策としても大事じゃないかと思うんですよね。
これを辞めてしまうと多分何もない。』
宮『僕のゼミにはテレビディレクター、新聞記者、ゲームクリエイターなどがいて色んな所に散っていくんだけど、人間は心理学で言えば認知的斉合化の動物だからクズ界隈で楽に生きるには自分もクズになることなんです。
ゼミで立派なことを言っている奴が次々とクズになっていく様子を35年、教員をやっていて見てきているので、コイツらにクズにならないでもらうにはゼミの繋がりを卒業した後も切らさないようにする。
時々、ゲストに呼んで話してもらったり参加してもらったりする。
1人が100人に広げることも大事。
だけど、1人が2人か3人に繋がることも大事。
繋がった相手が表現の活動、パブリックを相手に何か情報を発信する活動にいたりする場合は1人が1人に影響を与えることがものすごく大事なんです。
人間は弱いから独りぼっちになるとクズ界隈では自分もクズになっちゃった方が楽になる。
なので若い方に伝えたいのは、そんなクズ界隈に適応してクズに交わればクズになるみたいなのは嫌だなと思ったら、クズになりそうだったら諌めてくれる仲間や恋人を作ってほしい。』
藤『松任谷由実の"卒業写真"の一節ですね。
"遠くで叱ってほしい"っていう心のマインドが必要ですよね。
そういう意味で僕はコロナ前は相当な投資をしていて、特に夜の時間は色んなソサイエティの連携をしていたんですが、本当にコロナでそれができないんですよね。
意図的にやるべきなんでしょうけども、それなりに細々と続けています。
全面的に年に1回の藤井会とかも東京や京都でやってたんですが、難しいですね。
できないとクズコンタミネーションって言うんですかね、汚染されていくんです。
それが僕はすごく怖くて早くコロナが明けてメンテナンスをしておかないと、せっかく作ってきたものが急速に失われていく感じがする。
コロナ禍でうつ病になったり自殺が増えたりっていう問題もありますが、それと同時に色んなソサイエティ、コミュニティ、仲間を作ってメンテナンスしてクズから遊離する力を与えていたと思うんです、それぞれが。
でもコロナで全部ダメになったので、みんなクズになっていく。
クズの方が楽ですから。
とてつもなくクズ化していると思う。』
宮『それに抗うには皆さんが自発的に振る舞うしかない。
僕も正々堂々と言いますが、日本は自粛要請に過ぎない。
強制ではないけどロックダウンの時期に新入生とスペイン料理を食べようっていう会をするので渋谷のどこそこに集まれ、って言うとみんな来るんです。
ある1人の学生からは「宮台先生って実在するんですね」って言われましたよ(笑)
夏休みも合宿をするし、もちろん自発的な参加で色んなことに気をつけながらするんだけど。
とにかくホモ・サケル、生きてさえいればいいっていう日本の映画によくありがちなダメな台詞があるんだけど、生きてるだけじゃダメなんだよ。
"どう生きるか"が大事なんだよ。
藤『命が大事っていう沖縄の言葉で「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)というのがあります。
あれはあれですごく素敵だなと思うことはあるんですが、あの前提にはクズじゃないっていうのがあるんです。
沖縄なんてコミュニティがめちゃくちゃ濃くて1人ひとりが命どぅ宝で生きていることでクズ化しないという保証がある。
それもなしに砂粒でNetflixだけを見ている奴が「生きてさえいればいい」とか言っていたら「じゃあお前は何をするねん」ってなりますよね。
そもそも哲学は善く生きるために考えている。
人間が考えるのは善く生きるためですよね。』
宮台『社会を善く生きるとか人生を善く生きるっていうのは自分がそれを善いと思っているからと、人間は愚かだから勘違いするでしょ?
先人たちは何を善いと思ってきたんだろうとか自分の囲いの外にいる人たちは何を善いと思うんだろうってことを一生懸命、参照して「自分は思い違いだったな」と思うことで人間は蓄積的に賢くなっていくわけです。
そういう意味で"伝統は大事だ"とオウム返しのAIのように語るのではなく、自分の頭で自分のスパン、スコープの外側にある善きものを辿り続けるってことが大事ですよね。』
藤井『クズじゃない人の定義は"自分がクズである可能性を常に心に留めながら見つければすぐにそれを改め、クズでないように努力し続ける人物"です。
それをしていればその人がクズかクズじゃないかは既に関係がなくなっている。
したがってクズである可能性に思いを馳せることができるかどうかだけが大事でしょうね。
クズは本当に自分のことをクズと思っていないから。』
宮台『僕は最近"開かれ"と"閉ざされ"という言葉を使うんだけど、ウヨ豚(ネトウヨ)が出てきた理由は左翼のパヨク的な活動にある。 
それは、人よりもイデオロギーに縛られてしまうということ。
価値観に閉ざされるということ。
でも1番、大事なことは"開かれ"なんですよ。
例えば、左翼は"開かれ"という概念に閉ざされている。
これが非常に病理的なんです。
そうではなくて、仲間って閉ざされた集団に見えるけど、それにどうコミットするかっていうことを考えることで人は開かれていくんです。
"閉ざされ"を通じた"開かれ"っていうのもある。
人間はどのみち閉ざされているんです。
どんなに開かれようと思っても閉ざされているので、永久革命的な自己革新が必要。
「俺は開かれている」と思った瞬間に"開かれ"に閉ざされている。
あなたも、開かれましょう。』



 

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