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「文化がなくなったからって、一体どうなるっていうのさ?」


「プラダを着た悪魔」という映画をご存知でしょうか。

僕、めちゃめちゃ好きで、DVDも持っていて、一時期は毎週のように見返していた映画なんですけど。

観たことない〜っていう方に向けて、ほんとうに簡単にあらすじを説明しますと。

アンドレア(通称:アンディ)という大学出たての若者が主人公です。彼女はジャーナリスト志望で田舎からニューヨークに出てきましたが、新聞社などの採用に尽く落ちます。そんな状況で、ひょんなことから働くことが決まったのが「ランウェイ」という雑誌の編集部。

この雑誌はハイエンドなファッションを扱う高級モード誌(VOGUEがモデル)。この編集部には帝王のように君臨する”ファッションの守護者”ミランダ・プリーストリーという編集長がいます。仕事に対するシビアさで誰からも恐れられていますが、同時に多くの業界関係者から尊敬もされています。

アンディは「ファッションには興味がない」というタイプ。なんなら当初は、ハイブランドに身を包み、ビシっとメイクを決め、ピンヒールで床を「コツコツ」鳴らしながら歩く同僚たちのことを内心で軽くバカにしている節もあります。

物語は、そんなアンディがミランダの仕事ぶりを間近で見つつ、真剣にファッションの仕事に打ち込む人々に触れることで、自分の殻を破り、仕事に邁進し、その先に訪れる葛藤の末、本当の自分を見つけていくというように進みます。


そんな「プラダを着た悪魔」の前半に、こんなシーンがあります。(僕の大好きなシーンのひとつなんですが)

次の紙面を飾る洋服を選ぶ「ランスルー」が行われる場面です。編集長のミランダのオフィスでは彼女を中心に、何人かのスタッフがいくつものシュテンダーにかけられたたくさんの洋服の中で議論をしています。そこに立ち会うアンディ。ちなみに、このシーンでアンディは鮮やかな青色の(化学繊維の)セーターを着ています。←これ重要。

ミランダは自身が選んだワンピースに合うベルトを探せと部下に指示します。部下は2本のベルトを提案しますが「私にはどちらがいいか選べません。とてもタイプが違うので」と答えます。

しかしアンディの目にはその2本のベルトが「ほとんどおんなじ」に映ります。(じっさいよく似てる。でもバックルのデザインが違う。)同じようなベルトについて真剣に悩むミランダたちを見て、アンディは思わず笑い声を溢してしまいます。

これに目を留めたミランダが「なにがおかしいの?」と聞きます。

それに対してアンディは「いえ、何も・・・私には全く同じベルトに見えたので・・・。」と答えます。それに続けて ”I’m still learning about this stuff and, uh…” と言います。「こんなのについてはまだ勉強しているところで」という感じでしょうか?

ミランダはこの "stuff" という言葉に引っかかります。"stuff" は "thing" と同じく「モノ」という意味がありますが、"thing" よりも若者言葉のスラング的な砕けたニュアンスがあり、使い方によっては指し示すものに「敬意を払っていない」と取られかねません。

英語に堪能な友人に聞いたら「「もの」っていうより「やつ」「あんなん、こんなん」の「なん」っぽいかんじ」と説明してくれました。

ミランダはアンディの放った "this stuff" という言葉に対して "“THIS…STUFF”?" と受け取ってこのように続けます。

OK. こんなことあなたには関係のないと思っているのでしょ。

家のクローゼットからそのサエない「ブルーのセーター」を選ぶ。
なぜなら着る物なんか気にしないほど自分はマジメだと世間に見せたいから。

だけど、知らないでしょうけど、そのセーターはただのブルーじゃない。ターコイズでもラピスでもなく、実際はセルリアン。 あなたは知らないだろうけど、2002年にオスカー・デ・ラ・レンタがセルリアン・ドレスのコレクションを発表した。

それからイヴ・サン・ローランだったか、セルリアンのミリタリージャケットを発表した。そのあとセルリアンはすぐに8人の違うデザイナーのコレクションに登場。そしてデパートに浸透し、安いカジュアルの店にも出回って、あなたがセールで購入した。

しかしながら、その「ブルー」は巨額の金と無数の労働の象徴。

...ちょっと滑稽じゃない、自分はファッション産業とは一線を画すのだと選んだセーターは、この部屋にいる人間があなたに選んであげた物なのよ・・・

この "stuff" の山の中からね。


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新しい感染症への対策で、さまざまなイベントに中止の要請が出されています。そのことに対してあらゆる演劇人、音楽家、ダンサー、アーティスト、スポーツ選手が警鐘を鳴らしています。

「文化の灯を消すことは、重大な社会的損失に繋がる」と。


しかし日本はそもそも、国家予算に占める文化政策への予算やGDPに占める寄附の割合が低く、先進国の中で最低水準にあります。

どうやら日本で文化活動をすることは「本人の好きなことをやっているだけだ」という風に捉えられることが多く、「社会的に重要な役割を担っている」という見方はあまりされないようです。

(まあそもそも、「好きなことをやる」ことだって、国から適切な保護を受けるべきだし、民間レベルでも尊重されるべきなんだけどね。犯罪行為とかでない限りは。)


劇作家の平田オリザさんはこう語ります。

命の次に大切なものは一人一人違うんだと思うんです。音楽がなきゃ生きていけないという人もいれば、スポーツが生きがいの人もいる。で、命の次に大事なものは一人一人違うから、そのほかの人が大事にしていることに思いをはせる、寛容になるってことが今こそ必要なんだと思うんですね。(略)何に救われるかは一人一人違うので、あなたは必要ないかも知れないけど必要としている人がいるということですよね。

"「文化を守るために寛容さを」劇作家・平田オリザさん"
けさのクローズアップ|NHK おはよう日本https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2020/04/0422.html

まさしく、です。心の底から共感します。

しかし同時に「そもそも寛容さを持っていない人に、この言葉は届くだろうか」とも思うのです。

たとえば「そもそも私には文化は必要ない」と思っている人がこの言葉を聞いたときに、心が動かされるのでしょうか。

<2020年5月21日追記>
そして案の定、この平田オリザさんの言葉は、「炎上」という出来事を経て「一般社会」には届かないものになってしまいました。
<ここまで>


だから今日は、そういう「自分は文化に興味ないから」というような方にもどうにか届くような言葉を探して、文章を書いてみたいと思うのです。


ところでこれがなんだか、わかりますか。

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わかりますよね。ティッシュペーパーの箱です。

首都圏ではさいきん一時、手に入り難くなった商品でもあります。ちなみに写真のティッシュは僕の部屋にあるやつを適当に撮影したものです。なんか、あんまりうまく撮れなかったや。

このティッシュ、いまや生活必需品ですよね。なくなったら不便だと思います。

僕らの日常生活の中に、当たり前にある「ティッシュペーパーの箱」ですが、ここにも実は「文化」の足跡を読み取ることができます。


たとえば「クリネックス(Kleenex)」というロゴ。特にアルファベットのロゴは非常に特徴的な文字です。ここには「カリグラフィから影響を受けたフォントデザイン」が施されています。

カリグラフィというのは西洋や中東に発展した「文字を美しく見せるための手法」のことです。一般にその起源は、1世紀後半〜2世紀にかけての古代ローマにあるとされています。

(余談ですがアップルという企業を通して我々の生活と経済を劇的に変えたスティーブ・ジョブズが、半年しか続かなかった大学生活中、カリグラフィの講義には出席していたというエピソードは有名です。)

2千年以上の歴史がある「カリグラフィ」という文字に対する美的感覚を伴った技術は、現在の私たちの生活にも多大なる影響を与えています。当然ながら、こういった「カリグラフィ」や「フォントデザイン」は文化の一部分です。


また、箱に施された色彩に注目してみましょう。柔らかい曲線を描いたピンクがグラデーションになるようにズレて重ねられています。意識してみなければ「ピンクの箱だな〜」ぐらいにしか思わないですが、ここにもデザインが施されています。

僕はデザインの専門家じゃないので確かなことは言えないんだけど、この幾何学的な線とパターン化された模様の連なりには、「アール・デコ」からの影響を感じます。もっというと、アール・デコやバウハウスから影響を受けたポップアートの影響、でしょうか。



さて、経済を発展させることを考えましょう。

資本主義の社会で経済を発展させる力強い方法は、消費を増やす、つまりモノをたくさん作ってたくさん売ることですね。

モノを売るときには「宣伝」が行われます。僕たちがふだん目にするCMも宣伝のための方法です。次は、CMを考えてみましょう。

なんでもいいです、あなたにとって印象に残っているCMを思い浮かべてください。

そのCMには、「BGM」がついていませんか? あるいは「CMソング」が歌われていませんか?

「音楽」を伴わないCMは、かなり少ないのです。短い時間で視聴者の意識に印象付けるために、CMクリエイターたちは頻繁に音楽の力をかります。

さらに。多くのCMでは「ダンス」も取り入れられています。出演者が踊っているCM、たくさん見ますよね。なんとはない、ちいさな手の動き、なんかにも振付師がついている場合が多いです。

「アニメーション」の付いているCMも多いと思いませんか? マンガのキャラクターが登場したり、あるいはマスコットが踊ったり歌ったり。

そして当然、この「音楽」「ダンス」「アニメーション」の技術は、人類の長年の文化活動が培ってきたものです。

想像してみてください。音楽もダンスもアニメもなくなったCMのことを。それで消費者の購買意欲を掻き立てることができるでしょうか。うーん、なかなか難しいと思うなあ、僕は。


もう少しCMについて考えてみます。

そこに登場する人々が着ている「ファッション」に注目してみましょう。

誰もが知ってるお茶の間で人気な「俳優」が着ているその「スーツ」。どうやら大手スーツメーカーのCMです。安価で着やすく洗濯も簡単なそのスーツ、めちゃめちゃ便利ですよね。男性用も、女性用もあるようです。

「スーツ」も文化の申し子です。ざっくりわけると「ブリティッシュスタイル」「イタリアンスタイル」「アメリカンスタイル」とあり、それぞれオリジナリティある進化をしてきました。

スーツの歴史を遡るとイギリスの上流階級に行き着きます。さらにその源流にたどり着こうとすると宮廷服の時代までさかのぼれます。

現在、ファッション業界は世界的にみても非常に大きな市場を形成しており、世界の経済発展に一役買っています。この「ファッション」にも「デザイン」の力が必要であり、「ファッション・デザインの歴史と縫製の技術」はそれひとつを見てみても、「偉大なる文化」です。


おっと、気付きませんでしたがその「スーツ」のCMに出ている「俳優」さん。彼が出演するドラマやバラエティは視聴率が高く、彼が広告やCMに出るとその商品の売り上げはいつも上がるらしい。

彼は地方出身で、高校時代に演劇部に所属していたみたいです。大学進学を機に東京へやってきて、在学中から小劇団を立ち上げ、下北沢の小劇場なんかを中心にお芝居を作っていました。

40代にさしかかるころ、有名な演出家の目に留まり商業の舞台に進出。そこから個性的な存在感とたしかな演技技術を武器に、映画やドラマの業界でも重宝されるようになりました。

さいきんではハリウッド映画にも進出して、海外の演劇人からも尊敬を集めているようです。もちろん、海外作品に出演した際には、日本では考えられないほどの大きな額の出演料を受け取り、納税もきちんとしているようです。

でも、そんなキャリアも、「高校の演劇部がなければ」「下北沢の小劇場がなければ」「商業演劇の舞台がなければ」「日本の映画やドラマがなければ」、花開くことはなかったんでしょうね、きっと。

当然、「俳優」も「演劇」も「映画」も「ドラマ」も、文化の一部です。ちなみにここに挙げた俳優は、架空の人物ですけどね。


すこし周りを見渡しただけでも(ティッシュとCMを眺めてみただけでも)、私たちの生活には「文化の足跡」が至るところに潜んでいることがわかりませんか?


たしかに、劇場に演劇を観にいく人は、国民全体の割合からいえばごくごく少数の人かもしれません。しかし、テレビを見る人の割合はどうでしょう。スマホで動画を見る人の割合は。

「人によって撮影された映像」を見る機会のある人は全員、「演劇」や「映画」や「アニメーション」「ファッション」「音楽」「ダンス」「デザイン」といった文化の恩恵を受けています。


アクセサリーを集めるのが好きな人はどうでしょう。

あなたが大事にしているエメラルドのその指輪。じつはデザイナーが「グレース・ケリー妃」をイメージして作ったというエピソードがあります。グレース・ケリーはアメリカの、往年の大女優です。彼女からのインスピレーションがなければ、そんなに美しい指輪はこの世に誕生していなかったかもしれません。

もちろん、「指輪のデザイン」もそれそのものが「文化」の一端を担っています。


ゴルフに行くのがなによりの息抜き、という人はどうでしょう。

あなたが着るそのウェア。素敵な配色ですね。これも「ファッション」と「デザイン」の力によって生み出されています。

ご自慢のゴルフクラブ。そこには「物理」と知識と技術とともに「工業デザイン」の力も結集されています。ここにも「文化」の影響があります。

というかそもそも、「ゴルフ」という「スポーツ」が「文化」以外のなにものでもありません。


私たちの「普通の生活」から、文化の影響を拭い去ることはできません。

もしも「文化」がいっさい消え失せた世界を想像したとしたら、私たちは裸のまま、生肉や木の実をそのまま貪り食うことしかできないかもしれません。そうだ、当然ですが「料理」も文化のひとつ。


たしかに私たちの多くは、普段の生活のレベルでは、「前衛的な演劇」や「クラシック音楽」や「現代美術」の恩恵を直接受けているわけではないかもしれません。

だから、そういった「ごく一部の人が好き好んでやるような文化活動」の存在意義がよくわからなくても仕方ありません。

しかし、こう考えてみてほしいのです。

一本の大きな川を想像してください。私たちはその河口付近の、流れの緩やかな、たっぷりと水のある、栄養豊富な土地に住んでいます。悠々とした流れの恩恵を、なんの苦労もなく受け取っています。

そこが私たちの「日常」です。そして、川の流れは「文化の流れ」です。これはイメージです。

その水を供給するのは上流の泉です。そこは流れもわずかで岩がたくさんありゴツゴツしていて、とても安らかに住める場所ではありません。しかし、その土地に好き好んで住もうとする人々がいるのです。

それが、演劇人や、音楽家や、ダンサーや、芸術家、スポーツ選手といった人々です。「プラダを着た悪魔」のミランダ・プリーストリーも泉のそばに住む人のひとりです。

その人たちはそのゴツゴツといた居心地の悪い土地に住み、日々、泉を守ります。その泉はきちんと手を加えないと、ベトベトとした泥や周りに生える樹木からふってくる落ち葉に埋もれて、水の流れが途絶えてしまうのです。

もしもあなたが高級ファッションやそれを普及させるための仕事をしているミランダのことが大嫌いだとしても、彼女のような人たちを殺すことは勧めません。あなたが着ているそのシャツは、高級ファッションのデザイナーが考え出したデザインから生まれたものだし、そのデザインに社会的な地位を与えたのは他でもなくミランダのような人たちなのですから。


泉から湧き出す水が途絶えてしまえば、その川の流れも途絶えます。下流でも水が枯れ果てることでしょう。

その冷たく、澄んだ、キラキラとした水を絶やさないためには、川の流れの上流で日々せっせと泉に手を入れる、「文化を愛する人々」の存在が必要不可欠なのです。


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川の比喩を使いましたが、この川の名前はなにも「文化」だけではありません。

「医学」という川もあるでしょう。「科学」という川もあるはずです。「教育」という川も、「政治」という川もあります。

ありとあらゆる川が合流した、その穏やかな河口で、私たちは生活をしているのです。

「文化」の川だけを守ってほしいわけではありません。すべての「川」が大切なのです。一度枯れた水は、容易には戻ってきません。

もしも止むを得ない判断でその水を枯らすのだとしたら、せめて、「私はその川を枯らす判断をした。覚悟を持って。」という意思を見せてほしいのです。

ナアナアなままに、私たちの愛するあの泉を枯らされてしまうことは、絶対に許せません。


「文化を守る」というのは、文化関係者の明日の食い扶持を守ること以上に、「100年後のこの社会の豊かさを守る」ということなのです。

そしてこれは非常にレトリック的に聞こえる言い方かもしれませんが、「100年後のこの社会の豊かさを守る」ためにすべきことは、「今いる文化関係者の明日の食い扶持と、彼らが自分の能力を発揮できる場を守る」ことなのであります。


未来永劫、豊かな川の水を枯らさないために。



もしもいっさい文化がなくなったら、

私たちの「ふつうの生活」は立ち行かなくなるのですよ。


読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。