夕方という気分。
気分、というものがある。
「今日は気分がいい」とか「あいつは気分屋だから困る」といったように使われる。
しかしなんというか、いま僕の感じている「気分」は、そういったときに使われる気分とはどことなくかたちが違うような気がする。
さっき僕は、今日はじめて家の外に出た。
日も沈みかけ、うっすらと夕焼けが見えるような時間になってはじめて家の外に出た。
午前中から事務仕事を片付け、質素な食事をとり、洗い物を済ませ、シャワーを浴びた。音楽をかけながらTwitterを眺めたり、PCでピナ・バウシュの作品の動画をみたりした。
身支度をして、気に入っているセーターを着、髪を整えいつもの香水をふり、荷物を確認して家を出てきた。
駅までの道のり、低い建物の向こう側に滲むような夕焼けが見えた。その夕焼けに向かって歩いていた。
歩きながら思った。
「ああ、これが僕の気分だな」
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夕方になってようやく出かける、というのが以前から好きだ。日中は家の中でグダグダしている。やることもやるが、基本的にはグダグダしている。
食べたいときに食べたいものを作り、ゆっくり食べる。
寝転びたくなったらベッドに寝転ぶ。ときどき床にも寝転ぶ。
音楽はかけたりかけなかったりする。テレビをつけっぱなしにしているときもある。
本を読んだり楽譜を眺めたりすることもある。
やらなきゃいけないことはやるけれど、やらなきゃいけないことを集中し切ってやれるほど僕はストイックじゃない。いつもなんとなく辻褄を合わせる。(こんなこと堂々と書いてていいのだろうか、まあ、いいということにしよう)
そんなことに飽きたころにのっそりとシャワーを浴び、身支度をして、外に出る。
髪を乾かしながら自分の中で「よそいき」のスイッチが入るのがわかる。服を選ぶころには「今日はどんな自分でいたいか」を決める気持ちになっている。
ワックスを手に取り髪をざっくりセットする。ここ数年ずっと使っている香水を使う。荷物を持つ。靴を履く。家を出る。
このころには大概、いい気分になっている。
一丁、歴史のひとつやふたつでも変えてやろうじゃん、ぐらいの気分である。別に、いつも通りの予定が待ち受けているだけなのだけれど。
夕方の空気のなかに身を滑り込ませると、世界はなんで美しいのだろうと思う。本当に、いつもそう思うのだ。
きっと世の中には、「日の出の頃の朝の空気がいちばんだ」とか、「夜、街が寝静まった頃の空気がいちばんさ」とか、そう思っている人もいると思う。それはそれでいい。
でも、僕にとってはなによりも、夕方の空気がいちばんだ。
そもそも僕は朝に弱いから、日の出の頃に起きたりなんかしたらその日いちにち使い物にならない。そして宵っ張りではあるけれど、夜の深い時間は外にいるより、家の中で好きなことをしているのが好きだ。
夕方には、なんともいえない澄んだ複雑さがある。
昼と夜の交わるところ。仕事終わりの人々とこれから仕事の人々の交わるところ。一日の終わりを表しているようでありながら、残りわずかな今日という日の「特別な時間」の到来を匂わしているかのようでもある。
そんな瞬間にその日はじめて、外の空気に触れる。
それがたまらなく、僕の気分に合う。
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「水が合わない」という表現がある。
その土地や組織の環境に馴染めない、適応できない、居心地が悪いみたいな意味で使われる。
そういう表現があるのかどうかは知らないけれど、逆にしてみたら「水が合う」という言い方もできるような気がする。
どうも僕は、夕方の時間が「水が合う」らしい。
僕の身体も僕の心も、夕方という時間帯になんとも穏やかでありながら活力に満ちた状態になる。それが、僕という存在の、気分なんだろうと思う。
いつも夕方の空気を纏って生きていけたら、どんなに楽でどんなに楽しいだろう。
「いつも、夕方の空気を纏って生きる」
これをひとつの目標にしてみようか。いまふと、そんなふうに思いました。
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