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「不条理演劇」の楽しみ方。


いま、不条理的な演劇をつくっています。

みなさんは、不条理演劇って見たことありますか?

お芝居を見る機会がテレビや映画だけだったり、商業の大きな作品や宝塚・劇団四季だけだったりすると、あまり出会わないタイプの作品かもしれません。

僕たちが普段、テレビや映画や大きな舞台でよく見るタイプの作品を、演劇の用語で、「ウェルメイド」と呼ぶことがあります。

もちろん、そういった一般的な作品の中にもウェルメイド的でないものもあるのでこうして断定しちゃうのは危ういことなのですが、今回はわかりやすく「ウェルメイドと不条理演劇」を対比するために、こういう言い方をしちゃいます。

その点はご了承ください!


ウェルメイドの演劇作品にみられる特徴はどんなものでしょうか。

・ストーリーが論理的に進行する
・登場人物の会話が噛み合う
・物語の展開を追うことが比較的簡単
・意味不明なモノが出てこない

他にもあげられるけど、ざっとこんなところでしょうか。

「え!?それって当たり前なんじゃなの!?」と思われた方もいらっしゃると思います。そうですよね、僕たちが普段見ているお芝居とかを考えたら当たり前ですよね。

それよりなにより「意味不明なモノが出てこない」ってどういうこと?と思われた方もいらっしゃると思います。これも当然ですよね。サザエさんを見てたら突然にシュメール語を話す空を飛ぶ長靴とか出てきても困りますものね。

でも、実は、世の中には、

・ストーリーが論理的に進行せず
・登場人物の会話が噛み合わず
・物語の展開を追うことが難しく
・意味不明なモノが出てくる

というタイプの演劇があるのです。

そういう構造を利用して作られた劇作品の一部を、「不条理演劇」と呼びます。

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とまあ、そう言われてもよくわからないでしょうから、不条理演劇の要素が強い作品のなかから、いくつか引用してみたいと思います。

ルート なるほど。
     間
    そう、色っぽい顔立ちだな。
ギブズ 色っぽい顔立ちと申せますな、はい。
ルート 歩くときによろよろする?
ギブズ そう言えば、ほんのちょっぴり。
ルート そう、よろよろする。左の尻のところがいけない。
ギブズ 左の尻とおっしゃいますか?
ルート そりゃ、どちらかだよ。こいつは間違いない。
ギブズ そう、少しよろよろしますな。
ルート そう、その通りだ。
     間
    少しよろよろする。どこへ行くにも・・・・・・あの女はよろよろする。
    それにトフィーが好物だ・・・・・・あれば必ず手を出す。
ギブズ その通りです。
     間
ルート いやーーー私は知らんよ、その女は。

(「温室」ハロルド・ピンター著/喜志哲雄 訳 ハヤカワ演劇文庫)

この会話、一見、筋が通ったように感じます。前後の言葉のやり取りは成立してますから。が、実はこの二人、劇の冒頭からこの「六四五九号」と呼ばれる女性について何度も話しているのです。

が、けっきょくその女性が誰なのか、ルートにはわからないまま。


女  あの・・・・・・
妻  なあーに。
女  ・・・・・・驚かないんですか。
夫  なにが?
女  なにがって、こうやって車がとび込んできて。
妻  驚いてますよ。ねえ、あなた。
夫  そう、驚いてますよ。
女  あ、めくばせした・・・・・・
夫  しませんよ。
女  いや、ぜったいした。
妻  (優しく)気のせいよ。
女  あ。
夫  (憤然と)しませんよ。
妹  (自動車にただならぬ関心を見せて)これ、ブルーバードSSSね。
夫  相変わらずくわしいんだね。家から一歩も出ないくせに。
妻  あたし、この型、あんまり好きじゃないの。どうせならスカイライン二〇〇〇GTがいいわ。

     男、たまりかねて、食卓の上にかけのぼった。

男  自動車の型なんてどうだっていいだろ!あのさ、壁を突き破って車が飛び込んできたんだよ。壁をドカーンと破って。夜の夜中、一家団らんの最中に・・・・・・もっとびっくりしたらどうなの、助けてくれとか、出ていけとか、おれたちをくそみそに非難するとか、そうするのが常識だろ。それが人間のもっとも自然な姿だろ。
妻  だから驚いているっていったでしょう。人間って極度に驚くと、かえって一見平静に見えるものなのよ。(といいつつ編物をしている)
男  (妹に近づき)ね、ね、きみの家って、いつもこうなの。
妹  今にわかるわ。
男  今にわかるって、なにが?
妹  (突然、リルケの詩集を読み出す)村から白い馬がひとり駆けてきた。前脚の枷に杭をひきずりながら、夜をひとり牧場ですごすために。
(「ぼくらは生まれ変わった木の葉のように」清水邦夫 著 ハヤカワ演劇文庫)

この作品は、一家団らんの居間の壁に車が激突するところから劇が始まります。

それでも平然としている家族の様子や、突如詩集を読み始める妹に、車に乗ってた男と女は薄気味悪さを感じますが、なぜかこの後、この家族の居間から出ていくことができず、一緒に生活を続けます。

そのなかで、シェイクスピアの演劇ごっこなんかもします。

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戯曲の一節だけだとあまり伝わらないかもしれませんが、どちらの作品も不条理的要素の強い戯曲です。全編を通してみるとその「論理性の薄さ」「物事の起こり方の突飛さ」が感じられると思います。

ちなみに、いま僕が仲間たちと作っている不条理劇の台本はこんな感じ。

長   私達は高みより来ました。
付網  私達もまた、高みより来ました。
クモ  どちらがより高みなのか聞こう。我らは交わらないが、唯々、どちらが高みなのか問おう。
長   わからない、ここから頂上は見えない。
付網  こちらも分からない。ここから裏側は見えない。
モグラ ヒィヒヒヒヒ!ウサギは見えるな。
(「ヤマガヒ-しんしん-」 中原和樹 著)


で、問題はですよ、こういう「ウェルメイド的ではない書き方」で、いったい劇作家たちはなにを表現しようとしているのでしょうか。

きっと、こんな風に思われる方もいると思います。

「分かりづらいセリフとか、難しい言葉とかをわざと使って、なんか芸術めいた、"凡人にはわからないだろうな、まあ、わかる人だけわかってくれるばいいんだ"みたいな感じの、崇高なものを作ろうとしているんじゃないの?」

って。

でも、不条理演劇の成り立ちをしっかり追っていくと、「わかる人だけがわかればいい崇高な芸術作品」を作るために論理性を排除しているのではなく、むしろ、「ひとりでも多くの人にあることを伝えたいから」この表現形式が生まれたのです。

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演劇史のなかで不条理演劇が重要な劇作法として受け入れられた背景には、第二次世界大戦があります。

戦争とは常に不条理な存在で、一般市民にとっては避けたくても避けられない、自身がその動向に関与することができない人為的な大きな災害のような存在です。

関与することはできないのに、自身が兵隊にとられたり、夫や息子を戦地に送り出したり、あるいは空襲や地上戦の被害地域になったり、食料や資源が手に入らなくなったりと、たくさんの人の生活に大きな影響を与えます。

こういった「戦争という不条理な存在」は、人々のなかに、「どれだけ平凡な幸せが欲しいと思い努力しても、戦争の下ではなすすべもなく、一瞬に財産や命を失うこともある」という虚無感や絶望感を生じさせました。

そんな状況から、「貴族の人間関係や権利欲をめぐる時代劇」や「若い男女のラブストーリー」や「貧困から立ち上がり成功するサクセスストーリー」的な演劇ではなく、

「私達がどう行動しても、世界は良くならない」という前提にたった表現が生まれました。それが実存主義思想や、不条理文学、不条理演劇というものでした。


ウェルメイドの作品の多くでは、登場人物たちは自身の欲求に従って行動をし、その行動は社会や世界に影響を与えます。

その行動や言動により、恋人の愛を取り戻したり、失った祖国を再生させたり、お金持ちになったり、喧嘩をしていた人たちが和解したりして、物語は終わります。

が、不条理演劇では、登場人物たちの行動は、社会や世界に影響を与えることができません。

社会や世界の動きは、登場人物たちがどう行動するかにほとんど関係なく、無慈悲に進行していきます。

また、劇のスタート地点において、登場人物たちは閉塞的でドン詰まりな状況に身を置いていることが多いです。

それが、無意味な会話や、無意味な行動、非論理的な出来事によってさらなる窮地をむかえ、堂々巡りのやり取りを経て、劇の最後では状況はさらに困窮しているか、まったくの良い進展を感じさせずに終わります。


正直言って、そんなもの、見てても面白くないかもしれません。見てて、ハッピーな気持ちになるとは、到底思えません。でも、演劇の歴史にとって、あるいは現代を生きる僕らにとっても、不条理演劇は重要な表現形態です。


なぜならば、いまの時代においても、不条理な出来事は日常のあらゆる場所に転がっているからです。

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学校に通う子どもにとって、いじめは、かなり不条理な出来事です。

いじめの多くには、そのいじめに至る論理的な原因はありません。些細なことから、いじめははじまります。

というか、そもそもいじめが論理的な行動ではありません。

そして、現代社会において、多くのいじめ被害者である子どもたちの行動は、状況を良くする力を持っていません。不条理ないじめは、登場人物の行動に関係なく、無慈悲に進行していくことがあります。


本来、論理的で建設的な議論がされるべき政治の世界でも、不条理な出来事は頻発しています。

国民は、その政治の流れに強く関与する力を持っていません。

デモが行われても、それに影響をされないかの如く、さまざまな法案が成立していきます。


サービス残業の横行、過労死、低賃金、ブラック企業なんかも、もしかしたら不条理な存在かもしれません。

当事者にエネルギーがあれば、もしかしたらそこから脱却し、ウェルメイド的なハッピーエンドを迎えることができるかもしれませんが、一度そこに嵌ってしまい虚無感に身を支配されてしまうと、もはやそこから脱却しようとする行動は自分の状況を改善させる力も持たなくなるのかもしれません。


社会には、多くの不条理な出来事が存在しています。

もちろん、幸せな出来事や、明るい出来事も、たくさん存在しています。

そういったポジティブなこと、希望を持ち続けるようなストーリーも、僕らには必要です。

が、その陰になった部分を表現し続けるということも、演劇にとってはかなり重要なミッションだと僕は思っています。

その「陰の部分」、「現代社会における不条理な出来事」を描くには、不条理演劇という表現形態が、かなり有効なのです。


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現実はしんどくて厳しいのだから、舞台を観る時間ぐらいは夢を見たい。

その気持ちもわかりますし、そういったニーズを満たすのも演劇界の重要な使命です。

そういう時間を僕らが提供することで、次の一週間を頑張れる人がいる、次の一日を頑張れる人がいるという事実は、本当に素晴らしいことです。演劇の力ってすごいなと思います。


同時に、社会や日常に苦しんでいる人が、その苦しさを誰かと共有したいという気持ちを持っていたとして。

演劇はその「苦しさを共有する相手」になれる力も持っていると思います。閉塞感や虚無感を表現することによって、それに苦しんでいる人に「理解してくれる友人」を提供できるかもしれません。

あるいは、モヤモヤと「なんか変だよな」と思っていたことに対して、不条理演劇的なアプローチでの作品を見ることで、「私が思っていたモヤモヤの根源はここにあったのか」と気づくキッカケを提供できるかもしれません。


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世界には、ほんっとにたくさんの表現の形態があります。

日本の演劇のメインストリームでは、ウェルメイド的なもの、エンタメ色の強いもの、ミュージカルや2.5次元が市民権を得ています。

が、演劇が提供できる「人に影響を与える力」は他にもあるのです。

そういった多彩な表現を、日本の演劇市場が受け入れられるようになれば、もっとたくさんの人が生きやすくなったり、友だちや仲間を見つけるきっかけが増えるはずなのです。


毛嫌いする方も多い不条理演劇ですが、もしよろしければ、いつか、どこかで、つまみ食いでもしていただけると、いち表現者としては嬉しく思います。





読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。