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「表現」が観たいのだ、記録ではなくて。


もう一度、あらためて考え直してみる。


目に見えないウィルスの脅威はいまもなお継続して僕たちの生活に影響を与えているけれど、数ヶ月前と違うのは(僕の生活にとって重要な要素について語るとすれば)劇場の幕が上がり始めているという点だ。

2月の末から3月の中旬の期間で、日本のみならず世界中の劇場が公演の中止を決定していき、一時はありとあらゆる劇場がオフラインでの活動を休止した。

その代わりに存在感を増したのが、オンラインでの演劇配信だ。

以前から、じっさいに舞台の上で上演された演劇の録画映像を放映することで演劇ファンに演劇を届けるという手法はあった。テレビでも、映画館でも、DVDやVHSでも、インターネットでも。

しかし、それらはどちらかといえば演劇という営みのなかで、ある種の「オプション」として機能していたような記憶がある。決して主力ではなかった。


だが今は、配信は以前よりも相対的に市民権を得、それどこか公演をするにしても客席数を減らすしかない演劇興行における、新たな収益の柱と見做されてもいる。

じっさい、イギリスのナショナル・シアターが行う「ナショナル・シアター・ライブ」という企画は、ナショナル・シアターだけでなくイギリスの名門劇場の上演作品を高品質で録画し、演出家や劇作家のインタビューも含めて再編集した上で、世界各地の映画館でそれを上演し、イギリス演劇の知名度のアップとともに、収益の増加も実現した。

同様の取り組みはニューヨークのメトロポリタン歌劇場の「METライブビューイング」や英国ロイヤル・オペラ・ハウスの「シネマシーズン」、モスクワのボリショイ劇場の「ボリショイ・バレエ in シネマ」などもある。

日本では、2002年からはじまった宝塚歌劇団の専門の衛星放送チャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE(タカラヅカ・スカイ・ステージ)」、2004年にスタートした劇団☆新感線の公演を映画館で上演する「ゲキ×シネ」、2005年から松竹が手がける「シネマ歌舞伎」などが同様の取り組みとしてある。


でも、やはり少し前までこういったもの、特に映画館での演劇上演なんかは、どちらかといえば補助的な、つまり、舞台上演が主力だけれどもそれだけではリーチしない層への訴求策といった意味合いが強かったように思う。(スカイステージについては一種の特別枠なのでちょっと話が違うと思うけど)


それがいまや、むしろ、「配信」の方が演劇公演の「主力」といってもおかしくない事態になっている。それが言い過ぎだとしても、少なくとも、劇場での「生の」上演と「配信」は、演劇公演という営みにとってほぼ同等の重要度を帯びている。


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4ヶ月前、僕はこんな記事を書いた。

そこそこ長い記事なんだけど、つまり何を言っているかというと

僕はどうにも、配信される演劇を集中して観ることができない

ということ。

で、正直、いまもおおむねはその感想に変わりがない。そう、概ねは。


この記事を書いてから4ヶ月で、僕はこんな経験をした。

自分自身が、インターネットにて配信された演劇の舞台に立ったのだ。

その作品はガイドラインに従った数の観客を客席に入れることを想定しながらも、企画の当初から全体公演中のいくつかの日程でライブ配信がされることも決まっていた。

そういう環境で舞台に立つのは初めてだったので、なかなか興味深い体験だったのだけれど、終わったいま振り返ってみれば、とてもいい試みだったと思う。その理由はいくつかある。

1、公演中止の被害を最小限にすることができた
2、生で見れない人にも観てもらえる機会を作れた
3、映像がめっちゃカッコよかった

1、公演中止の被害を最小限にすることができた

その公演は開幕の少し前に、関係者1名の新型感染症陽性が発覚した。

幸い、その方の仕事のエリアが舞台から離れていたこと、当人が早めに自分で対処をしたことでその他関係者に濃厚接触者が発生しなかったことなどから、保健所の判断としては予定通りの日程で観客を入れての公演をしても問題ないということになった。

しかし、社会に与える影響を考えて、主催の会社が開幕から4日間、観客を入れるかたちでの公演の中止をすることを決定した。

その時点で、興行の収入額はガクンと下がる。けれど、中止を決定した4公演のうち3公演にもともとライブ配信の予定が入っていたことで、劇場の客席には無観客だけれど配信はやる、というかたちで公演を打つことができた。

それによって、配信公演を観てくださる方からのチケット収入は得られることになった。

つまり、ライブ配信を予定していたことが、ある種のリスクヘッジになったかたちだ。損害の全額は回収できないまでも、わずかでも売上をあげることができた。


2、生で見れない人にも観てもらえる機会を作れた

これについては、「ナショナル・シアター・ライブ」や「ゲキ×シネ」などの上にあげたサービスが既に達成していることだ。

でも、この状況下ではこの恩恵がさらに価値を高めたと思う。

前述したとおり、僕が出演した舞台は最初の4公演が、お客様を客席に入れることができなかった。けれど、そのうちの3公演をライブ配信することができた。

それによって、開幕を楽しみにしていてくださった皆様と、完全な形ではないにしろ、日程通りの幕開きの瞬間をともに喜ぶことができた。互いに少し離れた場所同士だったけれども。それでも、同じ時間は共有できたのだ。

また、この状況下で首都圏以外の地域に住んでいて、「前までだったら東京遠征するんだけどさすがに今は無理だな・・・」と思っている方に対しても、僕たちの舞台を届けることができた。


3、映像がめっちゃカッコよかった

これ、めっちゃ大事な要素だと思っている。少なくとも僕にとっては、かなり重要。

今回の舞台の配信には、WOWOWの全面協力があった。カメラが何台もあり、客席側からだけでなく、舞台上からの映像も織り交ぜて撮影されていた。カメラのスイッチングも天才的だった。

結果仕上がった映像は、本当に素晴らしく、カッコいい仕上がりだった。さらに、ただカッコいいだけではなく、非常に演劇的な仕上がりでもあった。

WOWOWさんレベルの映像を誰しもが撮れるわけではないので、これはもう本当に、興行主の東宝さんと映像担当のWOWOWさんのおかげとしか言いようがない。


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実際のところ、僕は今でも配信された演劇を観ることに慣れない。どうにも、最後まで観きることができない。

でも、僕自信が出た作品の、ゲネプロの確認映像は、これまで見ようと試みた配信の演劇よりも、長い時間集中してみることができた。

まあそれはもちろん、自分が関わる作品がどのようなかたちでお客さんの元に届くのかを確認したかったという気持ちがあったからでもある。(そして当然、僕自身がどのように映っているのかを知りたかったという気持ちもある。)

その上で、こういった「配信される演劇」を喜ばしく受け取っている人もたくさんいるのだということもより強く理解した。肌で直接理解した、といってもいいぐらいだ。


思い返してみれば僕は、ナショナル・シアター・ライブを観るのは、とても好きなのだ。

でも、ネットで配信される多くの演劇を観ることには、興味が湧かないのだ。

僕としてはやはり、自分が携わった作品の「映像がめっちゃカッコよかった」という点が、その要因になっていると思う。


「カッコよかった」というのは、単に見てくれがよかったということだけではない。舞台の空気感、物語の進行、演出的な意図、そういったものをしっかりと受け取った上で、それらを切り取るのに最適なアングルとタイミングで映像が展開されていたのだ。

つまりそこには、舞台を映像に落とし込むセクションにいる人々の、プロフェッショナルな仕事が凝縮されていたのだ。

僕たち舞台人は舞台の上で生身の身体を使って表現をする。

そして、あの舞台では、映像のクルーもまた、自分たちの経験と感性をフル動員して、映像という手段を用いて、目の前にある演劇を映像でどう表現しようかということに苦心してくださっていたのだ。


ある演劇を、定点カメラを用いて記録映像的に録画することは、これは表現ではない。記録だ。

僕は、記録を観たいわけではないのだ。「表現」を観たいのだ。

映像のセクションでもまた「表現」がなされているような配信演劇は、もしかしたら僕も楽しめるのかもしれない。

現に、ナショナル・シアター・ライブのカメラワークとその映像の切り替えは素晴らしい。劇場の雰囲気や俳優それぞれのパフォーマンスの見どころ、演出の意図などを十分に汲み取って映像が練られている。これを観ることにストレスはほぼない。

もちろん、じっさいにそれを劇場で観ることを想像すると、物足りなく感じるところもある。舞台上のどこを観るのかという「視線」を選ぶことができるのが、演劇観劇の醍醐味のひとつだからだ。

しかしそこから自分をちょっとだけ切り離した上で、映像によって提供される「表現」を享受する。そしてその映像のどこを観るのかは、その「視線」は僕自身が選ぶことができる。

じっさいの生の舞台と僕との間に、映像というフィルターが挟まることにはなっているが、しかしその映像もまたきちんと「表現」として機能していれば、その映像表現もひっくるめた「演劇作品の表現」として僕は受け取ることができるようだ。

その映像が単なる記録だと、つまり、表現を意図したものでないと、途端に集中力が途切れてしまう。


外出自粛の期間は、ある意味応急処置的に、すでに各人が持っている撮影設備と通信環境を利用して、演劇(とそれぞれが信じるもの)を配信していることが多かった。

それにはそれで、大きな意味があったと思う。

けれどこれからは違う。そのままでいいはずがない。

これからも劇場に人が集まることが難しい期間が続くのならば、演劇公演の収益減は確実だ。それをどうにかして埋めなければいけない。そうしなければ産業としても、文化活動としても継続性がない。

そう考えたときに配信は、主力の解決策になる。

その場合、配信の映像も含めてきちんと表現として成り立つような環境を、僕たち演劇人は整えていかなければならない。

大企業ならば巨大な資本と各社の連携を利用して、ハイクオリティの映像と強靭な通信網を確保することができるかもしれない。

問題は、小劇場的な場で戦ってきた演劇人たちだ。資金力のない僕らはどうやれば、「表現」として強度のある映像を手に入れることができるだろう。


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演劇を配信することの、問題点も書いておこうと思う。

カッコいい映像で配信ができることは本当に素晴らしい。

それによって、劇場に足を運べなかった人たちに演劇を届けることができるだけでなく、その映像を次回公演以降の宣伝材料に利用することも可能だ。

質の高い映像が資料として蓄積していくことで、日本演劇界の宣伝力や他分野への影響力も増加していくことだって想像できる。メリットは計り知れない。


ただ、映像にすることでやはり、画面のサイズで演劇が「切り取られる」ことも事実だ。

主演が素晴らしい芝居をする。カメラがググッとそこに寄る。画面いっぱいに主演俳優の魅力的な芝居が、歌が、映し出される。それ自体は素晴らしい。

けれど、そうやって切り取られた画面の外側にも、俳優はいるのだ。なのにその瞬間、映像の中では、彼らの存在は「なかったこと」になるのだ。舞台上にいるのに、映像の中には存在しない俳優と表現。それが、たくさん生まれることになる。


もちろん、劇場での生での観劇の際も、多くの観客は重要な役に視線を注いでいる。芝居を作る僕らの側も、照明や、演出的処理や、芝居の仕方などで観客の視線を「観るべき点」に誘導しようとする。

でも、生での観劇の際には、観客がどこを観るかという自由は、確実に保証されている。

照明のフォーカスや演出的な視線誘導の効果を振り切って、ひとりのアンサンブル俳優を見続ける、ということも観客には許されている。

しかし、配信された演劇には、その自由がない。

そうなると当然、その演劇の、物語の筋にとってより重要な役割を担う役が、多く画面に登場することになる。それに反比例して、物語の筋には直接関係しないが、その筋が進むための環境をつくるのは重要なアンサンブル俳優の芝居などが画面に登場する機会は減っていく。


つまり、主役級の俳優にはより多くのチャンスが与えられ、アンサンブルを担う俳優のチャンスは、より狭められるという構図が生まれる。

映像がひとつの「表現」だとしたら、その画面に入れない者はそもそも、その表現のなかに「存在しないこと」になるからだ。俳優間の格差が、より広がっていくのかもしれない。


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冷静に考えて、映像によって演劇を配信するという流れは、どんどんと重要度を増していくだろう。仕方ないことだし、必要なことだし、いいことでもあると思う。

それでも僕は配信された映像だけでは飽きたらず、体調管理に留意し、マスクをし、アルコールで手を濡らしながら、劇場に足を運ぶと思う。

僕は話の筋を知りたいから演劇を観ているわけではないからだ。あの、劇場という空間に充満する、なんともいえない空気を食べに、演劇を観にいっているのだ。じっさい明日も、演劇をひとつ観にいく。

世の中にはこんなにもたくさんの配信演劇が溢れているというのに、だ。


これはもう、ある種の病いとしか、言いようがないのかもしれない。


読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。