「すずめの戸締まり」にみる震災と天皇の表象可能性について




1.はじめに

 2023年、日本のアニメーションは重要な転換点を迎えている。数々の日本発のアニメーションが中国や韓国を筆頭とする世界各国でこれまでにない大ヒットを記録しているのだ[1]。新海誠の「すずめの戸締まり」もその一つだ。日本で2022年11月11日に公開された本作は、中国でも公開され約8億元(約155億円)もの売り上げを記録し、韓国でも日本映画の興行収入記録を更新した[2]。
 
 いまや世界的に人気を誇る新海誠だが、「すずめの戸締まり」という作品は挑戦的な作品であった。新海誠は「君の名は。」や「天気の子」の隕石や雨の描写として東日本大震災のメタファーを描き、震災以降の日本を表象してきた作家だった[3]。だが、「すずめの戸締まり」では、2011年3月11日に東日本大震災があったという事実が直截的に描かれている。それゆえに賛否両論を巻き起こす結果ともなった[4]。だが、この作品にはさらに挑戦的なテーマが織り込まれている。原作小説「すずめの戸締まり」(以下小説版)では、「皇居」について直截的に描かれている[5]。また、映画では東京上空から鈴芽が落下した先が皇居のお堀となっている。ここから「すずめの戸締まり」は天皇について言及していることがわかる。

 本論では、震災をテーマにした本作がいかにして天皇というものを表象しているかを明らかにするとともに、天皇または神道的なるものを表象することは果たして可能であるのかというのを近代以降の国家神道を参照しつつ検証していくことを目的としている。本論では、最初にあらすじを記し、次に本作における天皇の表象、そしてその妥当性の検討をし、現代における意義を確認する。なお、本論では小説版を参照する。


2.あらすじ

 宮崎県の町で叔母と暮らす女子高校生・鈴芽は、ある使命のため全国を巡っている青年・草太と出会い、地震を起こす「ミミズ」のことを知る。この「ミミズ」を鎮めるためには各地にある〈後ろ戸〉と呼ばれる扉を閉めて回らなければならず、草太はその役目を背負っている「閉じ師」であった。鈴芽は大地震を引き起こす「ミミズ」を封印していた「要石」を偶然に引き抜いてしまったことに気づく。猫の形に変化した「要石」は、草太を鈴芽の持っていた子供用椅子と一体化させ、逃げ出してしまう。鈴芽は草太を元の姿に戻すべく、ダイジンと名付けられた「要石」を追い、東へと向かう旅に出るのであった。

 各地の〈後ろ戸〉を閉める旅のなかで、すずめは人々の思いや願いを知っていく。二人が東京へ着くと、東京上空に巨大な「ミミズ」が現れる。草太自らが「要石」ではなくなったダイジンの代わりに「要石」となることで最悪を免れることができるが、変わり果てた草太の姿に鈴芽は涙を流す。草太のおじいさんに「人のくぐれる後ろ戸は、生涯一つだけ」と聞いた鈴芽は、小さい頃迷い込んだ後ろ戸を目指し、鈴芽を追ってきた義母・環と草太の友人・芹澤と共に東北へ向かう。

 岩手県にある鈴芽の実家跡につくと、鈴芽はある日記を見つける。そこで鈴芽は東日本大震災の暗い記憶と向き合う。扉の場所を思い出した鈴芽は〈後ろ戸〉へ入り、草太を元に戻すことに成功する。だが、「要石」が抜かれたことで「ミミズ」が再び動き出す。鈴芽と草太はそれを止めるべく、東日本大震災で亡くなってしまった人々、そして土地に思いを馳せ、祈る。結果、ダイジンは再び「要石」となり、「ミミズ」を鎮めることができる。最後、〈後ろ戸〉の中で出会った震災直後の幼い自分へ、鈴芽は未来への希望を伝えて物語は終わる。


3.表象される天皇

 「すずめの戸締まり」では前述の通り天皇を思わせるモチーフがよく登場する。全国の〈後ろ戸〉を閉じて回る「閉じ師」という職掌から平成の天皇(以下明仁天皇)が行ってきた「旅」を連想するのは容易である[6]。本作のラストシーンの描写からも連想できる。


「死は常に隣にあると分かっています。それでも私たちは願ってしまう。いま一年、いま一日、いまもう一時だけでも、私たちは永らえたい!」
 常世の火の粉まじりの熱風が、彼の黒髪と白いロングシャツをなびかせていた。
「猛き大大神よ!どうか、どうか―!」
 草太さんが目を開き、一層に大きな声で叫ぶ。

新海誠, 2022, 小説 すずめの戸締まり, 角川文庫.


 これは、暴れている「ミミズ」を鎮めるため、鈴芽と草太が「要石」を持ち、神に祈る場面だ。これもまた、明仁天皇の「祈り」と重なるところがある[7]。

 また、閉じ師による〈後ろ戸〉の戸締まりの際に「ここにいた人たちのことを思い」「声を聴く」という表現も同様のことが言える[8]。

 あるいは、すずめの旅路は、たとえば神武天皇の東征や昭和天皇の「巡幸」を想起させうるものだ。宮崎県から始まり東北へ行く道筋のなかで北海道と沖縄が含まれていないことには、アニメファンたちの「聖地巡礼」と戦後の昭和天皇の「巡幸」によって日本再統合を目指したことに重ねている、という指摘もある[9]。

 このように「すずめの戸締まり」のなかでは明らかに天皇を示唆しており、しかも意識的に描いている[10]。


4.天皇の表象可能性/不可能性

 本章では、現代の作品において天皇を表象することは可能なのかという問いを論じる。前章では「すずめの戸締まり」において、どのように天皇が表象されてきたかというのを論じた。しかし、戦後日本において天皇を表象するというのは容易ではない。なぜなら明治維新後に形成された近代天皇制というのは、多くの国民が国家の政治秩序に関与し、進んで国家に貢献することを目的として整理されたもので、さらには国家神道という制度として確立されたものであったからだ[11]。そしてこの国家神道こそが太平洋戦争まで至る原因となる。

 ここでは近代天皇制と国家神道の仕組みを参照しておく。近代天皇制は、「私」的な信条と「公」的な秩序理念のもとで形成された[12]。「私」の領域で許可された諸宗教と「公」の秩序を司る国家神道という「日本型政教分離」がなされた[13]。国家神道は天皇が行う皇室祭祀を頂点に全国の神社が祭祀を行うという制度であった。しかし、国家神道を真に根付かせたのは神社神道ではなく、天皇崇敬の精神を元とした大日本帝国憲法や教育勅語、さらにはメディアの役割が大きかった[14]。戦後、GHQが出した「神道指令」によって国家神道は部分的に解体されるが、一部の国家神道は残った。理由としては、GHQが皇室祭祀と神社神道をはっきり分け、前者に関しては国民の信教の自由という問題領域の枠外としたからだ[15][16]。

 つまり、戦後の天皇の祭祀に関わる行為というのは、国家神道で頂点とされた皇室祭祀と地続きとなっている。明仁天皇の「祈り」というのも同様に同じことが言えるだろう。ただ、皇室祭祀というのは古来よりあるアニミズム的な祭祀[17]と近代になって整備された国家神道的祭祀が入り混じっているということは注意しておきたい[18]。「すずめの戸締まり」に見られる祈りも同様に皇室祭祀との関連性を指摘できるだろう。前章で指摘したように、草太や鈴芽の祈りには明仁天皇の「祈り」との関連性がある。よって、「すずめの戸締まり」に表象される祈りが国家神道的な危険を孕んでいるのは事実だ。

 しかし、戦前では現人神といわれた天皇は戦後、日本国民統合の象徴となった。この事実も無視できない。フランスの哲学者ロラン・バルトによると、皇居というのは「神聖なる〈無〉をかくしてい」て、「中心そのものは、」「都市の一切の動きに空虚な中心点を与えて、」「空虚な主体にそって、」「循環しつつ広がっている」という[19]。ここから、戦後の天皇制というのはGHQの中途半端な神道解体によって生まれた「空虚な主体」と皇室祭祀を行う主体としての二つの側面があったといえるのではないだろうか。また、これは「すずめの戸締まり」における、草太の個人の葛藤[20]と祈りの二つの側面といえるのではないだろうか。

 明仁天皇が平成の時代に行ってきた皇室祭祀のような祈りを描く「すずめの戸締まり」は、古来より存在するアニミズム的な側面と国家神道に繋がりかねない側面があるといえるだろう。しかし、本作において祈りは、登場人物の葛藤や震災で亡くなった人への思いの上で成り立っていることを忘れてはいけない。こうした点を踏まえ、「すずめの戸締まり」は天皇をモチーフにした祈りとして表象可能であると指摘できる。


5.現代における意義

 前章まで述べてきたように本作において祈りという面においては非常に不安定な議論に支えられながらも表象可能であるとした。だが、現代社会における意義はなんだろうか。いま天皇や祈りについて語るというのはどういった意味を持つのだろうか。

 それは時代的な背景が大きいと考えられる。東日本大震災は社会を変えるほどの大きな変化をもたらした。福島第一原発の事故による原発デモやそれに触発されたSEALDsの学生運動、民主党から自民党への政権交代もその一種であるといえるかもしれない。だが、2020年代に入った現在、それらは失敗に終わったといえるだろう。原発は続々と再稼働し[21]、社会運動の機運も低下、政治が変わる気配もない。こうした状況において国民の平穏を願う「祈り」は無駄ではないと考えられる。そしてそれを表象することは現代の日本社会において意味を持ちうることであるといえるだろう。


6.さいごに

 これまで「すずめの戸締まり」における天皇の表象について論じてきた。「すずめの戸締まり」で天皇がどのように表象されたのかということから、それが現代においていかに表象可能であるかというのを検討した。結論として、本作における神道的な祈りは、登場人物の葛藤や人々の思いを経ることによって、戦前から続いている国家神道との関わりから離れ、表象可能になると言えることが分かった。そしてその祈りは震災以降の時代を生きる人々にとって意味を持ちうる。

 本論では、天皇の表象について論じてきたが、ジェンダー論的視点を交えた議論ができなかった。「すずめの戸締まり」の主人公は女性である鈴芽であり、天皇の属性として想像される男性である草太ではない。今後は天皇とジェンダーに関する視点も織り交ぜつつ、さらに議論を深めていく必要があるだろう。


〈この論考は早稲田大学の講義レポートとして提出したものを改訂したものです〉


[1]「スラムダンク、我々の青春」 日本アニメ、沸く中国. 朝日新聞. 2023-7-15. 朝刊. 1p
[2] 同上。
[3] この点に論じる文献は多数あるが、まとまっている文献として、藤田直哉, 2022, 新海誠論, 作品社.が挙げられる。
[4] “「すずめの戸締まり」新海誠監督・本気の「震災描写」に賛否の声“. livedoor NEWS. 2022-11-13, https://news.livedoor.com/topics/detail/23192610/(2023-7-18閲覧)
[5] 新海誠, 2022, 小説 すずめの戸締まり, 角川文庫. 232pなど。
[6] “象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば”. 宮内庁. https://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12(2023-7-18閲覧)を参考
[7] 同上。参考に該当しそうな文章を引用する。

「皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。」

[8] 茂木謙之介, 2022, 新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム, TOKYO ART BEAT, https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/suzume-tojimari-movie-review-2022-11.(2023-7-18閲覧)
[9] 杉田俊介, 2022, 新海誠が『すずめの戸締まり』で描きたかったものは何か?, imidas, https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-299-22-12-g823. (2023-7-18閲覧)
[10]「すずめの戸締まり」上映に伴う監督ティーチインイベントにおいて、新海誠は「閉じ師という役目について、実は「裏天皇」のような役割なのではないかと考えている。」と発言している。
[11] 島薗進, 2010, 国家神道と日本人, 岩波書店. p33
[12] 島薗進, 2010, 国家神道と日本人, 岩波書店. p52
[13] 安丸良夫, 1979, 神々の明治維新, 岩波書店. p208.
[14] 島薗進, 2010, 国家神道と日本人, 岩波書店. p3,94
[15] 島薗進, 2010, 国家神道と日本人, 岩波書店. P185
[16] つまり、戦後の天皇制の議論において、神社本庁や日本会議の問題とは異なっているということだ。補足しておくと、神道指令によって解体された神社神道というのは神社本庁などの組織となり、現在も国家神道的な思想を持ち活動している。
[17] 新海誠論の著者・藤田直哉は新海誠の描く神道はアニミズム的であると指摘している(藤田直哉, 2022, 新海誠論, 作品社を参照)。
[18] 近代になって整備された祭祀は「万世一系の天皇」の神聖さをたたえるために、記念日や皇紀といった時間に関わるものが多かった(島薗進, 2010, 国家神道と日本人, 岩波書店. P102参照)。
[19] Barthes Roland・宗 左 近, 1996, 表徴の帝国, 筑摩書房. P54-55
[20] 草太は教師になる夢を捨て閉じ師の仕事をする。
[21] 国内の原子力発電所の再稼動に向けた対応状況(電気事業連合会)を参考(2023-7-18閲覧)。https://www.fepc.or.jp/theme/re-operation/

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