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苦手な教科とホンネ

「苦手な教科は何?」って小学校の先生に聞かれたとき「道徳です」って答えたのを、よく覚えている。算数でも、国語でもなく。

なぜ道徳なのかというと「先生の思う正解を出さなきゃ」と思って、焦ってしまうから。

「自由に考えましょう」「いろんな人の意見に触れましょう」とはいえ、先生の思う答えと違っている回答のときには「なんでそう思うの?」「じゃぁ〇〇のときはどう?」って、なんだかつめられているようなオーラを感じてしまう。
それで答えられずに下を向いて黙ってしまう人を、何人も見た。
一方で、先生の思う正解に近い意見が出たときには、先生は、うん、とにっこりして力強くうなずくのを、子どもながらに感じていた。

小学生が授業中、自己肯定感を上げる瞬間といえば、自分の発言が板書されたとき。
当時は「あ、いい意見を言えたんだ」ってうれしくなった。

よく覚えているのは、「嘘」をテーマにした道徳の授業。
こんな話だった。

病気で入院しているときに、看護師さんから「同じ病気で入院している子がいてね、回復するために頑張っているんだよ」と、来る日も来る日も、その子のことを話してくれた。
いつか退院して、その子と一緒に入院して、苦しかった日々のことを共有するのが楽しみだった。
いざ迎えた、退院の日。退院したら、その子は先生のなかにつくられた虚像で、自分を元気付けるためにつくられていた人物だったとわかった。

「嘘をつくのは悪いこと」みたいな意見が出るなかで、自分は「その先生に感謝すると思う」みたいな意見を出したのを覚えている。だが、そんな意見を出したのはひとりだけだった。

そのとき、先生の思う、いわゆる気に入る意見じゃないのがわかって、自信がなかったから「どうか先生、指さないで……」ってずっと思っていた。早くこの時間よ、過ぎ去れ……と思いながら、下を向き、気配を消す。

いざ指されても、ふわっとした返しをして、あまり深掘りされないようにした。

近頃「ダイバーシティ」について意見を交わす機会が与えられる。

そんなときに、道徳の授業のことをよく思い出す。
なんとなく、問う人のなかに正解があって、その人が気に入る意見の範囲で物を言わないといけないような気分になって、窮屈に思ってしまう。

ダイバーシティを推進する企業の目的は?
おそらく、労働人口が減少するなか、人を辞めさせないため。

じゃぁどうすれば?と問われたら……

「給料がより高くなったら、ちょっとくらい負荷があっても人は辞めないと思うんですよね。例えば、需要と供給とのバランスで価格が決まるみたいに。
あと、女性活躍にノルマを課すのはやめにしましょう。投資家からの見た目がよくなっても、本当に昇進したい人ってどのくらいいるんでしょう。
下手に管理職登用〇%!ってやると、少ない母数のなかから選択しなきゃならなくなるから、後々首がしまる感じがして、こわいです」

……こんなことを言ったらビンタをくらいそうだ。そっとしまっておこう。

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