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『春と修羅』朗読のはじまり ―天沢退二郎氏の朗読会―

 そもそも朗読された詩についていろいろと聴いた経験があるわけでない。一方、最近では多くの情報が流れ、その中に詩の朗読が含まれることも確かである。ただ、好まない音声が耳に残ってしまう事だけは避けたい。朗読ではないけれど、歌唱で耳に残ってしまい、消えるまで時間がかかるものはいくつか数えられる。
 「詩の朗読」と言う作業を構成するに当たって「大きな一助」となった経験について触れておきたい。
 きっかけは不明でしばらく時間も経過したが、小生のところに天沢退二郎氏の詩の朗読会の招待状が舞い込む様になった。小生は「とんだりはねたり」したことは確か(もちろん気分として)であるが、天沢氏の「にゃあとした顔」を思い浮かべたかどうかは諸兄の御想像に任せる。(「どんぐりと山猫」より。)
 本人の肉声朗読の衝撃は、限りなく「素(す)」であったことだ。多少の聞き取りづらい様な場合や独特の口癖があることも含めきわめて「普通」であったことに感心した。「こういう朗読で良いんだ。」と思った。目から鱗か、耳から耳栓かが取れた瞬間である。その時は、朗読CD制作とは関係がなかったのであるが、後に制作する立場になった時に、結果的に可能性の範囲が広がり、肩から力が抜けたことは確かだ。その時の天沢氏が朗読されたいくつかの作品はその後に詩集にまとめられたりした。もちろん密かに録音を撮る様なことはしていないので、肉声は記憶にとどまるのみである。したがって、今回のCD制作に関するいくつかの判断のオリジンをずうっとたどって行くと、この朗読にたどり着くことは疑いない。(もっとも、全くその通りに模したと言うことではなく、自分なりの理解で組立て直していることは言うまでもない。)
 「さて『春と修羅』の朗読等が花巻市のイーハトーブ賞奨励賞を受賞するまでにはこんな苦心もあったというだけのおはなしです。」「紫紺染について」の末尾を借りれば、こんな感じに翻案できると思う。

 ※天沢氏の朗読は、天童大人氏のプロデュースに基づいていた。アートパフォーマンスProjet La Voix des Poètes(詩人の聲)(Wikipedia)
http://universalvoice.air-nifty.com/

※販売のページはこちらです。

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