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介護には専門性があるはずだ

今回から少し話題が変わります。
前回までは主に、自らの介護士としての現場経験をシェアしてきました。

本章からは「介護士の専門性とその実現方法とは?」という問いを自らに投げかけ、
研究の一環としてこれを深堀りして考えてみたいと思います。

魅力的な仕事には大前提に専門性が必要であると思っています。
よく介護は誰でもできるという言葉を耳にします。
それはある部分において全くもって正しいわけですが、これが全てであれば、介護の仕事の相対的な価値は低くなり、魅力もなくなっていきます。
そのため、あえて私は介護を誰もができる仕事ではないというスタンスをとって、介護の専門性について語りたいと思います。

我々は介護業務を通して高齢者の方の生活支援を行っています。
生活支援ですので、何か特別なことを日常的にするわけではありません。
普通に生活していて「なんかいいな」と感じられる瞬間や雰囲気の作り込みを丁寧におこなっていきます。

この「なんかいいな」という感覚は曖昧なものですが、意外と侮れません。
私が経営哲学に共感を覚える企業の代表は以前、講演で次のように言っていました。

「情報社会になって、言語化できる領域は共有できるスピードが激しいために競争の差異を生まなくなってきている。気持ちい、オモロイとか文化依存度の高い領域、つまり言語化や論理化ができない領域こそ競争の源泉になっている。

これは介護現場にも同じことが言えるのではないでしょうか。
画一的な方法論があるわけではなく、人の特徴やその日の動きを察知してその場の雰囲気を「なんかいいな」と感じられるようにしなくてはいけません。

つまり生活の「なんかいいな」を紐解き、それを引き寄せる力こそ、介護の専門性ではないかと考えます。
先に挙げた介護が誰でもできるというのは物理的な介助のことを指しているだけに過ぎないのです。

介護はアートと似ているかもしれません
ペンがあれば誰にでも絵は描けます。
ですが、唯一絶対の正解があるわけではないのに絵の中には良し悪しがあります。
これがいい絵だと、完成された作品を見ればわかるのに、それを書ける人はそう多くいません。

どうでしょうか。
「なんかいいな」という曖昧な領域を探っていく価値があるような気がしませんか?
今のところ、専門性はただ存在する、と言及しているに過ぎません。

存在しているけれども、見えていない専門性を可視化するというのが、私が研究の中で掲げる目標の1つです。

次回、この「なんかいいな」の感覚を鮮明な言葉に置き換えたうえで、その正体を明らかにした先人たちのお話をシェアしたいと思います。

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