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【閲覧注意】 「Ghost of Tsushima」はなぜ素晴らしいゲームなのか? ―その物語構造とゲーム体験― 【レビュー・考察・論考・批評】

※ネタバレを含みます。ゲーム内容を知りたくないという方は閲覧を推奨しません。
※ポリティカルコレクトネスに反する表現の使用があります。差別的な意図を含みませんが、使用すること自体が問題だと考える方は閲覧をしないでください。
※上記の2点をご了承いただける方のみの閲覧をお願い申し上げます。






1.【はじめに】

「Ghost of Tsushima」をクリアして、素晴らしいゲームであったと結論をした。どのような点において、素晴らしいと感じたのか、その物語の構造がどのように構築されているのか、その物語をゲーム体験としてどのように結び付けているのか、という観点で論じたときにその素晴らしさを理解できると考え、下記通りまとめた。

結論を先取りすると、
「3つの立場から緻密に構築される強度の高い物語構造を、境井仁(主人公・プレイヤー)のロールプレイから常に気持ちよく体感できる点で『Ghost of Tsushima』は素晴らしいのである。」と言うことができる。

それぞれ、下記の2つの観点からこのゲーム素晴らしさを書いていく。
 ・3つの立場から構築される強度の高い物語構造とはどのようなものか?
 ・その物語をゲームとしてどのように体験することができるか?

2.【立ち現れる3者の物語構造】


「Ghost of Tsushima」の物語は3つの立場から整理することが可能である。簡単に表記すると、この物語は『帝国VS武家VS土人』の3者構造から成る。そして、その3者は3人の人物を代表として描き出される。

  ・「帝国」→コトゥン・ハーン
  ・「武家」→志村
  ・「土人」→境井

それぞれ、「帝国」・「武家」・「土人」がどのような立場であり、それぞれとどのような相関を持つかを整理する。

『帝国』
代表される人物:コトゥン・ハーン
~帝国支配をもくろむ教育を受けたコンキスタドール~

強面に屈強な体躯を持ち、蒙古軍を率いるコトゥン・ハーンだが、コンキスタドールとして十分に知的な洗練もされている人物である。最初のムービーにて自身で言うように、日本を理解して流暢に話し、日本支配を目的として、文化理解の教育を受けている。コトゥン・ハーンの部下の内、隊長格の一部も日本語を操り、帝国支配の徹底した教育の片鱗をうかがい知ることができる。このことから、彼らは野蛮の限りを尽くし、ただ侵略をするだけの組織ではないことがわかる。彼らの目的はモンゴル帝国の支配を拡大することである。

その帝国支配の拡大の方式についてもコトゥン・ハーンの政策から比較的容易に推察できる。小茂田の戦いに勝利したコトゥン・ハーンは対馬を修める武家である志村を捕らえ、蒙古軍に下るように話をするのである。この事実はコトゥン・ハーンの狙いが武家の統治体制を活用して、対馬を支配することであることを示している。武家の統治体制をシンプルに塗り替えることで対馬を手中にすることを狙っているのである。武家の安定統治の上に、対馬を中継基地として、日本本土への侵攻を企てている。

帝国のシステムに則って侵攻をするコトゥン・ハーンであり、武家を戦いの面で圧倒することはできたが、境井が憑依する「カリスマ土人」に敗北することになり、対馬支配を諦め、戦いの途上で手に入れた毒をもって、日本本土への侵攻を目指す志なかばで倒れることになる。帝国の狙いは明確で、武家の統治を活用した対馬支配という洗練されたコンキスタドールとしての態度を一貫させる。透徹したこの帝国の動きは物語に強固な基盤を与えることに成功している。

『武家』
 代表される人物:志村
 ~対馬を統治する支配階級~

 
かつて、対馬は統治なき世界であったが、その混乱を抑え、統治することに成功したのが武家である志村家の勢力である。百姓の上に支配階級として君臨する武家という階級は、その威厳の後ろ盾として「時の幕府の威光」と「武士の誉れ」を掲げている。それらがそろわなければ、支配階級としての資格がないのである。

この武家を代表する志村という人物はこの支配階級としての武士像にかなり自覚的である。さらに、統治に関してもかなり知的な洗練をもっており、帝国の狙いを正確に理解している数少ない一人である。志村は甥である境井に対して、武家としての理想である誉ある武士像を担い、跡目として武家の統治体制のトップに座ってもらいたいと切望している。志村は境井に対して何度も武士としての誉れを説き、跡目を継ぐことを幕府へ上申している。

武家の支配は帝国が認める一定の堅牢さを誇っており、物語のもう一つの基盤として強く作用している。プレイヤーが操作することになる境井の出自もこの武家に求めることができる。(境井家は志村家を支える武家の一つであり、境井家は対馬の武家階級の中でもかなりの上位に位置するものと考えられる)強大であったはずの武家の支配が、帝国により脆くもその基盤を崩される構図の中から、境井は武士であるはずのその生き方から、生まれ直すのである。

帝国と武家の衝突から『冥人』というカリスマ土人を生んだことから、志村はこの武家の支配と相容れない境井を殺そうとするのだが、結局は敗北することになる。この物語において武家は、崩壊の一途をたどる、過去の支配階級として描かれる。

『土人』
 代表される人物:境井
 ~民衆呪術から産み落とされたカリスマ~

境井は武家の生まれであり、対馬の武家階級の頂点に君臨する志村の甥で次期当主筆の武家エリートである。漢文を少しだが読むことができ、和歌を詠むなど、武家教育を受けてきたことがうかがえる。蒙古軍の襲来がなければ、順調にその跡目を継いでいたと思われる人物だが、小茂田での戦いで武家階級が大敗することで、この境井の生き方も大きな転換を迎えることになる。

武家の教育を受けてきた境井だが、その支配階級としての実際的な態度については志村ほどの強度が明らかに欠けている。コトゥン・ハーンの帝国の狙いを志村から聞かされるまで分析ができていなかったことにそれが表れている。そしてそれは、支配階級としての武家が志村ほど内面化されていなかったことを意味する。

武家として完全な敗北を喫した境井は、武家のやり方では民衆を守ることができないと自覚する。その時に志村が掲げていた誉れの脆さに気が付いていくのである。負けた後もしばらくは明らかにその武家の誉ある戦いを志向していた境井だが、時間が経つにつれて草の根の民衆のただ生き残るための必死さしかこの戦争時には有効な生き方がないと考えを変えていくのである。「誉れは浜で死にました。」という境井の発言に痺れるのはこの一言に彼の小茂田以後の歴史が凝縮されているからである。実際のところ、境井の誉れ(武家的な戦争態度)は浜で死んだわけではない。転換点はその通り『浜』であるが、思想的転換は民衆の間から立ち現れてきたものである。

 どのような手段をもってしても蒙古軍を殲滅しようとする民衆の生活の在り方に密着した冥人の強烈な在り方に百姓たちは新たな土着信仰の在り方を見出す。例えば、冥人の噂が必要以上に大きくなっていることがあげられる。やたらと大男であるという噂や大陸に渡って、蒙古軍をもとから殲滅に出立するなどの噂が流れている。武家として生まれた境井だが、敗北を経て、野盗の生き残りの原理をベースとした理念のないカリスマ土人として生き直す物語をプレイヤーは体感することになる。このゲームは「カリスマ土人になろう!」というゲームである。
 
※菅笠衆について
菅笠衆は牢人と呼ばれるフリーの職業武人である。帝国の侵略によって、武家も百姓共同体もその基盤を解体されるような事態に陥っている。百姓を代表とする生産階級でない職業武人は食い扶持のもととなる生産者階級の基礎が揺り動かされたことにより帝国と手を結ぶしか職がなくなるのである。対馬の経済崩壊の影響を真っ先に受けたのが彼らである。小茂田の戦いにも出征していたことが明らかになるが、武家の敗北を見て逃走していることから、雇い主が武家であり、その敗走により支払いが担保されないことから逃走したことがわかる。(シンプルに死ぬことを忌避しただけとも考えられるが、生きるために牢人をやっている彼らの行動原理を知ることは可能である。すなわち、武家は誉れのために生きるが、菅笠衆は生きるために牢人として身を立てている。)

帝国側は侵略の影響により食い扶持を失った職業武人である菅笠衆を武力として接収していくことになる。蒙古軍は菅笠衆が食うために武人としてあることを理解していた。対馬統治をもくろむ蒙古側としても現地のフリー武人は飼いならしたい対象の一つである。そして、経済合理性に基づいて行動する彼らを蒙古側は取り込むことに成功している。(竜三の相克は「菅笠衆の頭としての合理判断」と境井と幼馴染であり、「境井と協働したいという気持ち」の2つの間で揺れ動くものである)


3.【物語構造に基づくゲーム体験】

前述した物語の中で、プレイヤーはどのようなゲーム体験をするのか、その強固な物語を気持ちよく体験することができる点でこのゲームは優れている。下記の3つの観点から考える。
 ・アクション
 ・成長
 ・フィールド
上記は相互に関連する要素である。それぞれが組み合わさって、物語の体験を重層化していることは間違いない。ここでは一つ一つがどのように気持ちがよいのかを考えていきたい。

『アクション』
~剣戟から暗殺、炸裂する土人の力~

初めに断っておくと、筆者は難易度を普通にてクリアしている。その他の難易度は未プレイであるから、下記のゲーム体験は難易度・普通での体験であることご承知願いたい。

・刀での切りあい(乱戦・1対1)
このゲームでのメインの戦闘となるのがこの刀での切りあいである。境井はこの刀での切りあいを武士として身に着けており、かなりの習熟度である。闇雲に切り付けても敵には有効打を打ち込むことはできず、敵の攻撃をはじき、回避をして隙を作り、攻撃するのが基本である。あるいは自ら強打を打ち込み敵の防御を崩していくことが必要となる。選択肢自体はそこまで多くはない戦闘だが、敵に囲まれても的確に剣をさばいて一人一人と切り伏せていくことはシンプルな快感を覚える。敵の死体の山を築いて、一人立った時の気持ちよさはゲームでなくては味わうことのできない体験である。

また、1対1での決闘においても、瞬時に回避・弾き・打ち込みの選択をしなくては切り殺されるというヒリヒリとした緊張感を味わうことが可能である。選択をうまくして切り込めた時の快感の積み重ねが敵を倒すという大きな快感へ昇華されていくことになる。乱戦の際にもそうだが、選択ミスでごくあっさりと死ぬということがある。その時のリカバリーの読み込みの速さはかなりのもので、即ゲームを再開することが可能である。成功体験での快感を最大化して、その上で負けの体験のストレスを極限まで小さくして、再挑戦へと誘うのである。この戦闘部分の基礎的な快感システムの構築の妙がこのゲームの気持ちよさの基本を成していると言えよう。

・弓での遠距離攻撃
武家の戦闘教養の一つとして境井が修めている武芸として刀での戦闘のほかに弓取の技術がある。遠距離からの暗殺を可能にするこの技術は、頭を打ち抜くゲーム体験をもたらす。どちらかと言えば、敵側の弓の攻撃をさばくことで存在が前景化されるものである。乱戦の中で、敵と対峙しながら、弓での攻撃へも頭を割かなくてはならない。一つの刺激剤として軽微なストレスとそれを避ける快感を与えてくれる存在である。
 
・暗器でのかく乱攻撃
クナイやけむり玉でのかく乱をすることで戦闘はさらなるバリエーションの広がりを見せる。この戦闘方は武士の戦い方というよりは何を使ってでも生き残ろうとする冥人としての生き方に基づく戦闘である。正面から切りあうよりも格段に戦闘は楽になるのである。武士の刀での戦闘と合わせて、この暗器での戦闘の体験を通じて、境井が武士から冥人になることを実感することができる。

・一撃の暗殺
武士の戦闘においては後ろから寝首を掻く行為は「誉れある」戦い方とは言えない。境井はこの後ろから暗殺するという行為を必要に迫られて選択するのである。殺しをするときも正面から相手を見据えて切り捨てなければならないという武士の在り方と真正面をきって相反するこの行為は武士から冥人へ境井が生まれ変わる行為の象徴的なものの一つである。後ろから忍び寄り、あるいは高所から飛び掛かる形で敵を一瞬で葬る快感は、そこまで隠れて敵に近づいていく過程を収斂するものとして、現実では得難い快感の一つである。この後ろから一撃で切り伏せるアクションの気持ちよさは正面から刀で切りあう快感とは別種の気持ちよさとしてプレイヤーを誘う体験である。

・冥人の型
圧倒的な土人体験の一つとしてプレイヤーを魅了するのがこの冥人の型のアクションである。まず、この冥人の型発動の条件が、一定人数を無傷で倒すか、蒙古軍の隊長格の首を刎ねるかであることから、この体験が通常のゲームプレイから隔絶した別格の快楽として設計されていることがわかる。この首刎ねから冥人の型へ移行する演出こそ、境井が冥人たる面目躍如である。それは圧倒的な呪術的な力の開示によって、殺戮の化身となる体験である。この冥人の型に入ると、すべての敵を一撃で殺戮することが可能となる。このカリスマ土人の象徴的な演出にプレイヤーは魅了されるようになる。その時にプレイヤーに惹起される感情は、「もう一度、あの隊長の首を刎ねる体験をしたい」という感情である。このような総合体験をゲーム以外で味わえようか。というかゲーム以外で味わってはいけない。


『成長』
~武士から冥人、お前なんかどこからでも殺せる~

噂が広がることで境井は技量を得て、できることが増えていく、それは境井の冥人としての力の伸長を意味する。戦闘の面においては蒙古の隊長を殺していくことで、戦闘スタイルの幅が広がっていく、戦闘への習熟レベルが上がっていくにつれて、新しい戦闘スタイルを身に着けていくことで、戦闘力の成長を感じることが可能である。ゲームにおいて、この成長を感じることができる瞬間は気持ちの良い瞬間の一つである。

暗器を扱うことのできる幅が広がることも成長を感じることができる瞬間である。しかし、この暗器についてはあまりに便利が過ぎるため、過度な使用は楽しみを損ねる可能性も秘めていると感じた。また、技量以外についても、フィールドに配置される各所を回ることで境井を強くすることが可能である。プレイヤーの操作能力の向上の楽しみと、境井というプレイアブルキャラクターの性能向上を少しずつさせる楽しみを見出すことが可能であり、あらゆるプレイの達成から、成長の喜びはちょっとずつ感じることが可能である。

 この成長の実感は、境井の殺人能力の向上に帰せられる。成長の喜びはやがて、冥人としての振る舞いを強化することになる。冥人としての圧倒的な自信を裏打ちする形でこの成長の喜びがプレイヤーに体感されるのである。


『フィールド』
~温泉から狐、血がいくら流れようと景色は美しい~

まず特筆すべきはあらゆるフィールドが狂おしいほど美しい景色となっていることである。どれだけ冥人として殺しをしようが、誉れを捨てて生きることを決意しようが、島の景色はこれまでと生きていたそれと何らの変化もなく美しく存在するのである。冥人が守ろうとしたこの対馬という島への愛着はこの美しい情景から作り出される。

フィールドに配されるのは島のトラブルだけではなく、温泉や狐の巣、神社など様々である。美しい景色の中に入り込むそれらの要素は前述の境井の成長にもつながっている。例えば、各地に配される小さな秘湯に入ることで境井の最大体力は向上していくのである。これは敵からの攻撃を受けることのできる回数の増減に直結するため、かなり大事な要素の一つであると言える。それを、島をめぐりながら高めていく体験は、美しい島を楽しみながら、実際的な強化をすることができるという体験としてプレイヤーに習慣化されていくことになる。

また、島をかける移動手段として馬があるが、愛馬との心温まる交流は冥人としての境井を体験するプレイヤーに一抹の癒しを与えてくれる存在である。愛馬と共にどこまでもかけていきたくなる気持ちになる。もう一つ書いておきたいのは境井の衣装の変更である。各種のイベントで手に入る衣装を強化しながら、見た目の変更も楽しむことができる。

【まとめ】


気持ちよく設計されているあらゆるゲーム体験としての快楽の動線が、プレイヤーが冥人としての歴史を積み重ねる方向へ働く。そして、蒙古殲滅を至上命題と内面化し、武家の原理と相克しながら冥人の自覚を強めることになるのである。コトゥン・ハーンを倒すことは目的の一つだが、しまいには蒙古殲滅(帝国を滅ぼして対馬に土人の平和を取り戻すこと)を目指すようになり、プレイヤーは一つの集落を開放すること一つ一つに気持ち良さを感じるようになっていく。実際、境井はコトゥン・ハーンを殺せたことを大喜びしていない。あくまで蒙古を殲滅して対馬の平和を実現することを行動原理としている。民衆の願いを叶えるカリスマ土人へ自らの像を作り上げる快楽の体験ゲームが用意されているのである。緻密な3つの立場の物語に立脚する冥人としてのゲーム体験は、「Ghost of Tsushima」を唯一無二の傑作ゲームとしている。

以上

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