ペヨトル興亡史外伝4-0

幻聴・幻視を起こすもの

踞って「Out of Blue]のダンサー位置を指示しているはずの、Kの身体は、みるみる床のブルーのリノリュウムに吸い込まれて、穴のように、黒い穴のように小さくなっていった。
膝を抱えてぐっとひざ頭を押さえ込んで力の入れて、かろうじて今ここにいるんだという感覚があって、手放すと、墜ちて行く。深い深海に。
頭蓋深い碧が刻まれると、その原因の悩みが消えても鬱は消えない。脳の碧がさらに深く群青になって鬱が身体全体に拡まっていく。ブルー限りなく碧の世界。碧は次第に濁って漆黒の水と同化していく。
脳に碧を染ませてはいけない。言い聞かせても侵食は続く。
膝をさらに強く抱き抱える。
その頃には、自分がどこにいるのか分からなくなる。演出をしている稽古場が、体育館なのか解体社の地下なのか…、深海なのか。ベッドの中なのか、溺れたプールの底なのか。
手足が解放された。水の中で仰向けで揺らめいている。揺らめいているのは水面の小さな輝く太陽。桜の花びらが水面に散っているのが太陽の滴のように綺羅っ綺羅っしている。
あ、死ぬのかな。気持ちいいなぁ。

1996年に岡崎京子が事故に遭って意識を失う重体になった。ペヨトル工房はその時、キャッシー・アッカーの『異形の愛』の表紙絵を依頼していた。岡崎へのはじめての仕事。プロデュースしていたEP-4の佐藤薫がなんちゃらとか、コミックス、いやあの頃は漫画か・・に描いていたりして、何級か下の下級生という感覚だった。「ヘルタースケルター」とかの黒い作品は、キャッシー・アッカーにぴったりだと。
その時、事故は起きた。無意識状態。瞬間に思ったのは岡崎の「水の中の小さな太陽」。意識を失って沈んでいく少年?だったかが、遥かな水面に歪んできらきら光る太陽の像を上げるシーンがあって、それは、美しく儚く、コミックとしては稀にしか描かれない、嘆美の映像であった。意識を失って植物人間と化した岡崎京子に「そのブルーから出でよ」というメッセージを送りたかった。『OUT OF THE BLUE』というダンスの作品は、岡崎の脳に話しかけるつもりだった。もっとも英語の意味はひょっこりという意味で、僕の大好きな現代美術作家、マウリシオ・カトランが、ミュンスターの野外彫刻展で、発表した、公園の池の中から顔を出すパフォーマンスだったが、ああ、それも沈んでいる身体だ。稽古中、自分が更年期障害なのか何なのか分からないけれど激しい鬱の状態に襲われた。

想像する。
奴はもっと濁ったもっと深い青の闇の中にいるやつを。
ぱらぱらとめくった山尾悠子特集の夜想にあいつ(今野裕一)は、居なかった。やつの匂いのしない『夜想』にそんなに興味はないが、いや、でもこの山尾特集号は面白い。
読みごたえのある。読める夜想。それがそもそも彼らしくない。
P54あたりに面白い記述があって、山尾悠子がSF作家協会に対してちくりと言っている。それがなかなか辛辣で、
「山尾はSFを書いていないと主張するのだから、SF大賞の候補入りは辞退すべきだった」とのたまう肥満体の選考委員が睨みつけてくるので……と、受賞スピーチでもかなりきつい表現をしていたのに、さらにその時のことを夜想に書き足して、根の深い恨み言。

こんなこと書いて大丈夫かとネットを検索していたら、夜想のHPにSF作家協会から抗議文があって、それに対して、夜想がクールに答えている。

山尾悠子年譜/年賦に付け足すいくつかのこと。
2019年のSF大賞の受賞の言葉が、そうとうに皮肉と恨みを込めたもので、こんなのあり?というくらいのものだったが、そこにさらに付け足している。
思いは恨みは晴れないんだろう。20年近く出筆の機会を真綿で首を締めるように押さえつけられた。向こうははっきりと言葉は使わない。論争になるから。
今の今野が弟(今野真二)にやられている方法と近いかもしれない。
母親と財産を奪い実家を奪いその上で連絡を絶つ。問い合わはすべてスルー。答えない。たとえそれが弁護士であろうと裁判所であろうと。窃盗という犯罪、相手を鬱におとしめるハラスメント犯罪。
しかし現在の法律では訴えることも話し合うこともできない。もちろん犯罪にもならない。
問題にしていることを言葉をもってコミュニケーションしない。遠回しのみなの頭の中に浮かぶ凡庸なストリーに収斂する。

パラボリカのHPにSF作家クラブから抗議文的なものが寄せられ、それに今野が編集長として答えているが、これは今までの今野じゃないな……余りにも元気がない。以前の今野ならぶち切れていただろう。ヨタヨタになりながら、責任をとろうとしている気がする。
さらにやみ(病)を深めるなよ。

山尾悠子の問題は、2000年度に遡る。第21回のSF大賞候補にノミネートされた山尾悠子『山尾悠子作品集成』は、荒俣宏の「幻想小説なのだからSF大賞の候補にはそぐわない。」という一言で落とされたと聞いている。そもそもSF作品ないと言い、SF作品でないと大賞受賞できないのなら、落とすために/晒すためにノミネートするのは、かなり問題がある。
以来、山尾悠子は、私の作品をSF作品と言うなと主張し続けてきた。
そして今回、第39回日本SF大賞。選考経過、選評は、ネットで全文読むことができる。
読んでもらえば曲解を誘導するような引用をしていないと分かると思うが、
  「作者はきっとSFを書いたつもりはないのだろうが、SFは想像力の文学なので、作者にそのつもりがなくても結果的にSFの傑作になるということは起こりうる。(中略)むしろもっともSF的な作品であるように思われる」
と全体評があって、一番最初に書かれている選評には、(日下三蔵)
 当時のインタビューでも、自分の作品はSFでなく幻想小説である、と明言されているし、97年に活動を再開されてからも、一貫して質の高い幻想小説を書いておられる。昨年、短編「親水性について」を創元SF文庫の年刊日本SF傑作選にいただいた時も、紹介文でSFという言葉を使わないなら、という条件で収録許可を下さったほど
と、最近にいたるまで、SF作品と呼ばれることを拒否していることを身にしみて(いや身にしみていないからこんなことになるのか)知っているのに……
山尾悠子さんは、日本のSF作家としては、……と、
と、平然と書く。ノミネートを受けたのだから、(SF作家としてでいいだろうとのたまっているかのようだ)……もう既成のことにしてしまおうということなのだろうか。
先に山尾悠子をSF作家じゃないと言ったのは、SFクラブのほうであるのに……。
日下三蔵の選評は、作品の内容についてふれていない。
『飛ぶ孔雀』がSF作品であるとだけ言い募っている。
こんな感じ。
 推理小説は技巧の文学であるから、ミステリをまったく知らずに書いた作品が優れたミステリになる可能性は、ほとんどないと言っていい。これに対してSFは想像力の文学であるから、SFと思わずに書いた作品が優れたSFになっていることは充分あり得る。山尾作品は、後者のもっとも高いレベルの実例である。
簡単に言うと荒俣宏は作品集成を幻想文学でSFじゃないから候補にも入れないとカットした。2000年のこと。そして今回は、幻想文学だと本人は主張するけどしらずにSF作品だから大賞をあげる。ということだ。
SFじゃないかダメ。SFだから○。二人の体格の良い選考委員がしていることは、賞ハラスメントはないの?
駄目押しのセカンドレイプ?
事情を知らない一般の人なら、嫌ならノミネートを受けなければいいじゃない、山尾さんと言いたいところもあるだろうが、このSF大賞もともとノミネートされたら山尾さん受賞が決まっていたのではないだろうか。
選評の中に贈賞の機会を逸してしまった重要な作家に賞を受けていただく千載一遇のチャンスであった。
と書いてる。
だからできレース。そんなことを妄想する。
しかし、山尾悠子さん自身もまさか
「あなたの作品は、SF、SFなのよ。本人は気付いていないけど。」
というような言われ方をするとはさすがに思わなかったのでは。
甘いですね。山尾さん。
だって山尾さんが「作品集成」で落とされたときの大賞は巽孝之「日本SF論争史」であって、とうじからSFを巡ることに、SFであるかないかについての基礎論考を作品よりも優先するクラブなのですから。
山尾さん声が聞こえなかったのですか?
今回賞を受けてSF作家として名乗ってもらって(そっちは名乗らなくても賞をとったんだからボクたち……ボクたちね。私たちじゃなくて……は、あなたをSF作家とお呼びするから。だってあなたは今や飛ぶ孔雀、いや飛ぶ鳥を落とす作家。最初に認めたのはSF界だからね。)
え?山尾さん実は聞こえていた……。
そこを書いたら問題になるのも分っていた。
山尾さんの20年の恨みはこの選評で倍化したかもしれない。
でもSFクラブはこの選評のもつハラスメント性には気がつかないんだろうな。
だからこその抗議文、しかも抗議にならないように出している。
それにしても。
こんなにやわい受け方をして今野、自爆しないだろうか。
壊れるなよ。死ぬなよ。

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