ペヨトル興亡史3-2




ぱらぱらとめくった山尾悠子特集の夜想にあいつ(今野裕一)は、居なかった。やつの匂いのしない『夜想』にそんなに興味はないが、いや、でもこの山尾特集号は面白い。
面白いということでは、山尾悠子年譜/年賦に付け足すいくつかのこと 山尾悠子 が秀逸だ。2019年のSF大賞の受賞の言葉が、そうとうに皮肉と恨みを込めたもので、こんなのあり?というくらいのものだったが、そこにさらに付け足している。

思いは恨みは晴れないんだろう。20年近く出筆の機会を真綿で首を締めるように押さえつけられた。向こうははっきりと言葉は使わない。論争になるから。

今の今野が弟(今野真二)にやられている方法と近いかもしれない。
母親と財産を奪い実家を奪いその上で連絡を絶つ。問い合わはすべてスルー。答えない。たとえそれが弁護士であろうと裁判所であろうと。窃盗という犯罪、相手を鬱におとしめるハラスメント犯罪。
しかし現在の法律では訴えることも話し合うこともできない。もちろん犯罪にもならない。

問題にしていることを言葉をもってコミュニケーションしない。遠回しのみなの頭の中に浮かぶ凡庸なストリーに収斂する。

今日、@yaso_peyotlパラボリカのHPにSF作家クラブから抗議文的なものが寄せられ、それに今野が編集長として答えている。
でもこれは今までの今野じゃないな……余りにも元気がない。以前の今野ならぶち切れていただろう。ヨタヨタになりながら、責任をとろうとしている気がする。
さらにやみ(病)を深めるなよ。

山尾悠子の問題は、2000年度に遡る。第21回のSF大賞候補にノミネートされた山尾悠子『山尾悠子作品集成』は、荒俣宏の「幻想小説なのだからSF大賞の候補にはそぐわない。」という一言で落とされたと聞いている。そもそもSF作品ないと言い、SF作品でないと大賞受賞できないのなら、落とすために/晒すためにノミネートするのは、かなり問題がある。
以来、山尾悠子は、私の作品をSF作品と言うなと主張し続けてきた。

そして今回、第39回日本SF大賞。選考経過、選評は、ネットで全文読むことができる。

読んでもらえば曲解を誘導するような引用をしていないと分かると思うが、

  「作者はきっとSFを書いたつもりはないのだろうが、SFは想像力の文学なので、作者にそのつもりがなくても結果的にSFの傑作になるということは起こりうる。(中略)むしろもっともSF的な作品であるように思われる」

と全体評があって、一番最初に書かれている選評には、(日下三蔵)
 当時のインタビューでも、自分の作品はSFでなく幻想小説である、と明言されているし、97年に活動を再開されてからも、一貫して質の高い幻想小説を書いておられる。昨年、短編「親水性について」を創元SF文庫の年刊日本SF傑作選にいただいた時も、紹介文でSFという言葉を使わないなら、という条件で収録許可を下さったほど

と、最近にいたるまで、SF作品と呼ばれることを拒否していることを身にしみて(いや身にしみていないからこんなことになるのか)知っているのに……

山尾悠子さんは、日本のSF作家としては、……と、
と、平然と書く。ノミネートを受けたのだから、(SF作家としてでいいだろうとのたまっているかのようだ)……もう既成のことにしてしまおうということなのだろうか。

先に山尾悠子をSF作家じゃないと言ったのは、SFクラブのほうであるのに……。

日下三蔵の選評は、内容についてふれていない。
『飛ぶ孔雀』がSF作品であるとだけ言い募っている。

こんな感じ。
 推理小説は技巧の文学であるから、ミステリをまったく知らずに書いた作品が優れたミステリになる可能性は、ほとんどないと言っていい。これに対してSFは想像力の文学であるから、SFと思わずに書いた作品が優れたSFになっていることは充分あり得る。山尾作品は、後者のもっとも高いレベルの実例である。

簡単に言うと荒俣宏は作品集成を幻想文学でSFじゃないから候補にも入れないとカットした。2000年のこと。そして今回は、幻想文学だと本人は主張するけどしらずにSF作品だから大賞をあげる。ということだ。
SFじゃないかダメ。SFだから○。二人の体格の良い選考委員がしていることは、賞ハラスメントはないの?
駄目押しのセカンドレイプ?

事情を知らない一般の人なら、嫌ならノミネートを受けなければいいじゃない、山尾さんと言いたいところもあるだろうが、このSF大賞もともとノミネートされたら山尾さん受賞が決まっていたのではないだろうか。

選評の中に
贈賞の機会を逸してしまった重要な作家に賞を受けていただく千載一遇のチャンスであった。
と書いてる。

だからできレース。そんなことを妄想する。

しかし、山尾悠子さん自身もまさか
「あなたの作品は、SF、SFなのよ。本人は気付いていないけど。」
というような言われ方をするとはさすがに思わなかったのでは。

甘いですね。山尾さん。
だって山尾さんが「作品集成」で落とされたときの大賞は巽孝之「日本SF論争史」であって、とうじからSFを巡ることに、SFであるかないかについての基礎論考を作品よりも優先するクラブなのですから。

山尾さん声が聞こえなかったのですか?
今回賞を受けてSF作家として名乗ってもらって(そっちは名乗らなくても賞をとったんだからボクたち……ボクたちね。私たちじゃなくて……は、あなたをSF作家とお呼びするから。だってあなたは今や飛ぶ孔雀、いや飛ぶ鳥を落とす作家。最初に認めたのはSF界だからね。)

え?山尾さん実は聞こえていた……。
そこを書いたら問題になるのも分っていた。
山尾さんの20年の恨みはこの選評で倍化したかもしれない。
でもSFクラブはこの選評のもつハラスメント性には気がつかないんだろうな。
だからこその抗議文、しかも抗議にならないように出している。

それにしても
こんなにやわい受け方をして今野、自爆しないだろうか。

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