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鬱かもなーって時に考えること

自分が辛いなぁって思う時や、うつ病って言う言葉を聞くと、いつも思い出すことがある。
大学院生だった頃、通っていた学校の近くの線路沿いの古いアパートの中で昼間からパソコンのモニターでテレビを見ている光景だ。窓のすぐ横を電車が走るとアパートは揺れてモニター画像はブルブルと震えている。テレビでは「…の症状がある時は鬱病の可能性があります。専門医の居る病院に行って下さい。」と何かの専門家らしき女性が視聴者に訴えている。そんな光景だ。
当時、今から約20年前、やっと鬱病という病気が世間でも認められ始めていた。自殺者が増加したからだったと思う。
それまでは「気分がすぐれない」といえば「気合いが足りないからだ」と怒られて終わる話だった。
今思い出せば、大学4年生くらいから鬱病らしき症状が定期的にやってきていた気がする。当時はそんな定義がなかったからよくわからなかったけど、なんとも言われぬ辛い日々が1ヶ月〜2ヶ月くらいは続いたと思う。それはそれは辛い時間が続くのでイライラもするし愛想もなくなるし、色んな人に迷惑をかけたはずである。今更ながら当時の仲間に感謝である。
ではもう克服したのかといえば、そんな事は無い。辛い時期がやってくる。でも、もう気合いでどうにかする時代は終わったんだから、楽にしたらいいと思う。鬱とはその人の持つ「業(ゴウ)」と社会との隔たりで起きる何かモヤモヤっとしたものなのかもしれない。

「人間万事塞翁が馬」という言葉が好きだ。いいことがあるときは悲報に備え、辛い時には朗報がやってくる時の準備をアホみたいにノリノリで始めるべきだと言い聞かせるとなんだか脳のスイッチが切り替えられるし、なんだか落ち着く。人の考える良いことと悪いことなんて表裏一体だから仕方がない。考え方一つで世界の見方が自分だけひっくり返る事もあるのだし。

スパーカー展に行った。
10歳の息子に頼み込まれたのだが、正直な話、億越えのスーパーカーの現物をみたいなんて浮世離れした大人だけだろうなんて思っていたのに、行ってみたら目をキラキラさせた小学生男子と付き添いの親ばかりだった。
未来は明るい。
そして私も人生を終えるまでにいつか、こんな子たちの何かの役に立ちたいという聖人まがいな想いに浸った自分に笑えた。

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