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私にとってのヴァン・ナチュール🍷

プロフィール欄にも書いているのですが、私はヴァン・ナチュール(vin nature いわゆる自然派ワイン)が大好きで、週末必ずと言っていいほど、飲んでいます。飲み始めたのは10年以上前ですが、本格的にハマったのは2016年くらいからです。
 
最近、noteでSHIBUYA Midnight Wine Bar 1AMという番組を見つけ、聴いています。
SHIBUYA Midnight Wine Bar 1AM - アヒルストア|「渋谷のラジオ」|note

アヒルストアの齋藤さん、Libertinの柴藤さん、祥瑞の柴山さん、グラフィック・デザイナーの岸さん、ゲストの方、長く日本のヴァン・ナチュールの中心にいらっしゃる方々の話題や語り口は、めちゃくちゃ軽妙で、面白くて、カッコよくて、大好きです。
ワインや飲食に関するものが話題の中心であることが多いですが、それ以外のあらゆる分野に共通する、凄く本質的な話をされています。

それに刺激を受けつつ、ゲストが南雲さんの回で、食べたときの感想について少し突っ込んで言語化をしておくことが大切だよ、という話があり、本当にその通りだ!、と感銘を受けたため、このタイミングで自分なりに大好きなヴァン・ナチュールについて、言葉にすることにしました。
 

ヴァン・ナチュールとは??

「ヴァン・ナチュール」の確定的な定義は、おそらく無いんだろうと思います。
 
正解がない以上、飲み手である私たちが、それぞれ勝手に「自分自身にとってヴァン・ナチュールって何??」と問いを立て、何かしらの形にしてみることは、とても有意義なことではないでしょうか(南雲さんの上記のお話にも通じるものです。)。
 
ヴァン・ナチュールを初めて飲んだ時の味について、最初から単純に美味しい、と感じる方は少ないのではないでしょうか。
私も、最初飲んだ時、今までと違った独特な味だなぁ、と感じました。
でも、飲んだ後、不思議と飲んだときの印象が残っていました。それは、飲み物として、単純な美味しいか、美味しくないか、側面だけでない、その奥に何かあるからと感じたからかもしれません。
 
味覚という観点では、一般的なワインも持つ味の複雑さとは別の次元の複雑さ、多層性、もっと率直に言えば、「なぜこんな複雑な味(単純に美味しいと言えない、独特なもの)になっているのか。それには、何か深い意味があるのではないか。」ということを含めて、直観みたいな部分で無意識に様々なことを感じたからこそ、心に残ったのだと想像しています。その得体のしれない奥行きが、心のひだに引っかかったのだと思います。
 
その後、ヴァン・ナチュールの生産者は、出来る限り農薬を使わないブドウの栽培、亜硫酸を添加しない、格付けに頼らない、など、効率性や権威を重視した既存の枠組みから離れ、自分の信じる道を歩みながら、ワインを丁寧に生産していることを知りました。
 
そんな経過を辿りながら、今の私にとってのヴァン・ナチュールとは、ワインを生産し、運び、注いで、飲む、という一連の行為を通じて、今までの自分の常識や制約を解き放ち、自由になることを体感させてくれる創造物です。それは、大げさにいえば、「進歩」を感得するものと言えるかもしれません。
 
ヴァン・ナチュールには、自由が醸しだす、軽やかさが、どこかにあります。だから、飲んだ時、肩を張らずにスッと入ります。押し付けがましかったり、権威や力で押し切るものではありません。
 
心と身体に、文字通り「沁みる」のです。。

「自由」の裏側に

 他方、軽やかさの裏側にある生産の実態をみると、ワインづくりは、ブドウ栽培という農業です。多くの生産者は手作業で、地道に取り組んでいます。
相手は、自然です。自然は、時に私たちの事情と関係なく、猛威を振るいます。コントロールできません。優しいものではなく、むしろ厳しいものと言えるものではないでしょうか。
 
ブドウの収穫と醸造は、一年に一度しかありません。
仮に30歳で生産を始め、70歳で引退した場合、40回しかチャンスはありません。ビジネスの世界で良く用いられる、PDCAを回す機会は、わずか40回です。
 
自然農法による生産の難しさや量、格付け、規制など、生産者を取り巻く環境は、決して容易なものではありません。
 
そんな過酷とも言える状況下で、生産者はワインを作り続けています。
そんな地道で大変な作業を続けるには、何か強い想いや信念・哲学が必要です。自然の厳しさと正対して向き合って、日々の地道な作業(行動)を続けるための、人間的な強さや厳しさが求められるではないでしょうか。
 
ローヌの代表的な生産者の一人である、アンダース・フレデリック・スティーンは、ヴァン・ナチュール(自然ワイン)ではなく、ヴァン・ピュア(VIN PURE)と、インスタグラム等で表現しています。
これについての私なりの理解は、ワインづくりとは、生産者が、既成概念に囚われない、自由さとその自由さを実現するために、厳しい自然と正対しながら、どこまで自らの信念や哲学に忠実であれるか、愚直かつ純粋に投影させようとしているか、という在り方そのもの。その純粋な想いが込められた飲み物(ワイン)だからこそ、彼はヴァン・ピュアと称しているのではないでしょうか。
 
「味」という面でも、偉そうに聞こえることを重々承知して言えば、厳しさみたいなものが投影されていないワインは、どこかダレていたり、間が抜けてると、感じることがあります。
 
そして、そのバトンを受け取った、インポーター、販売店、注ぎ手も同じです。
ワインの素晴らしさを理解し、大切に輸送して保存し、時には熟成させ、開けて注ぐに相応しいシチュエーションやタイミングを、生産者と同じ熱量をもって、これまた純粋さに由来する真剣さと厳しさをもって、私たちの口元まで届けてくれています。
 
そんな大変な状況で出来上がっているにもかかわらず、ワインは、飲み手である私たちに、苦労や大変さを微塵も押し付けてきません。
むしろ、先ほど述べたような、これまでのワインになかった軽さ、愉しさを、自然な感情として呼び起こしてくれます。
 
それは、厳しさのさらに奥にある人々の想い、既成の囚われから自由になる、大変な部分を含めてワインを生産することを心から愉しんでいる、といったことをワインを通じて味わえる。厳しさではなく、その自由な想いの方が投影され、私たちに伝わるから、と感じています。
 
その厳しさと自由(軽さ)の絶妙な両立、ヘーゲルの止揚(アウフヘーベン)の一つの在り様とも評することのできるもの、それがヴァン・ナチュールという創造物です。
 
「創造」の定義や意味は、人によって様々ですが、今までの既成概念や囚われから解放し、常識から離れたものを組み合わせることで、結果的に1+1=2を超えるシナジーを生んだもの。それが「創造」の一つと理解してます。「創造」を結果の側面からみれば、「進歩」と言えるのでしょう。
ヴァン・ナチュールも、飲むまでの一連の過程を捉えたとき、多くの方が携わる「創造」物と言えるのではないでしょうか。
 
飲み手である私たちは、その創造物を取り込ませてもらうことで、携わられた人々の創造性や人間的な深みや優しさに触れる、それを体感する瞬間を味わう。
 
そんな想いを大切にしながらも、飲み手である私達も口に入れた後は、重苦しくならず、軽やかに柔らかくなって、心から楽しんで飲んで、純粋になる。そうなることで、囚われが少しほぐれて自由になる。そして、何かを優しく受け容れ、誰かと語り合う。
 
そんな素晴らしい円環にいることの心地よさ。
 
言語化すると、毎度のように長くて重たくなってしまいましたが、そんなことをとっても小さく小さくして、小脇に抱えながら、今宵も素敵なワインを呑みたいと思います!
 
乾杯!!!

ちなみに。。(私のヴァン・ナチュールとの出会い)

 10年以上前から、祥瑞などヴァンナチュールを扱うお店に行かせてもらってたので、その時からヴァン・ナチュールを飲んでいるはずです。ただ、その時は日本酒やテキーラを愛飲していました笑笑
 
初期の印象は、独特で、あまりよく分からない。。でも、普通のワインとは違う雰囲気があり、何かが自分の中に印象として残っていました。
キッカケは、神泉駅の近くにあった小さなワインショップ(大分前に閉店して、名前も覚えていません。)で買ったBRESSAN(ブレッサン)のCarat2004と、大山さんによる恵比寿のWaltzで体感した白ワインとコンテのマリアージュのダブルの衝撃でした。
BRESSANを自宅で口に入れたときの衝撃は、今でも鮮烈に残っています。ワインの奥行きと深さ、そして何より純粋さがダイレクトに伝わり、こんなものがあるのか!!と感動しました。
直ぐにBRESSANのHPを観ると、なんと日本語のサイトがあるじゃないですか!そこには、彼の哲学や姿勢が綴られており、ワインに対する誇りや気高さに溢れていました。ただ感動し、もっと好きになりました。
 
当初は、BRESSANから派生し、ラディコン、ダリオ・プリンチッチといったオレンジワイン、カミッロ・ドナーティのピチピチした爽快感のあるものなど、イタリアを中心に、スペインやオーストラリアのものを飲んでいました。
オレンジワイン、という言葉は当時からあり、色のインパクトと白ワインとは思えないメインの食事とも並びたつ力強さに、食事とのマリアージュが好きな私の好みと合致し、オレンジワイン(醸したワイン)を飲んでいました。さらに、ラディコンのコルクの作りこみ、ラディコングラスの美しさなど、細部に至るまで生産者の哲学が美しく投影された世界に魅せられ、凝り性という性格と相まって、のめり込んでいきました。
 
それに拍車をかけたのが、恵比寿のWaltzでの、味が濃いチーズのコンテと白ワインのマリアージュの体験でした。
そこには、ナチュール独特の野性味と言える自然の風合いとコンテが絶妙に絡み合い、素晴らしいマリアージュが生まれていました。チーズは赤ワインしか合わない、という私の囚われた固定概念を、いとも簡単に一瞬で吹き払ってもらえたことに、これまた感動し、白ワインの奥深さに一層ハマっていきました。
 
ただ、当時、何となくフランスの生産者のワインは、勝手に繊細なイメージがあったため、自分にはあまり合わないと思い込み、お店で薦められて飲む以外は飲みませんでした。
現在は、大地に水が沁み込むニュアンスのテイストが、自分に合ってると感じるようになる中で、フランスワインの滋味深さに気づき、ドイツ、オーストリア、チェコなどのワインも大好きで飲むようになっています。

飲む器について

 コロナもあって、毎週末の家飲みが中心です。
妻が作ってくれた有機野菜で作る料理に、高校時代から大好きで、社会人になってからも夜な夜な東京のクラブであれば現場に馳せ参じたDJ HasebeのYouTubeをBGMにしながら、妻と娘と楽しく呑んでます。
 
飲む器は、最初はリーデル、そこからラディコングラスやグラヴナーグラスといったガラスで飲んでいました。
ただ、昔から陶器が好きだったことと、当時、日本橋浜町のVineria IL Passaggio(ヴィネリア・イル・パッサッジョ)で、偶然好きな作家の器でヴァン・ナチュールを提供しており、それに触発され、ガラスではなく、陶器で飲むようになりました(現在、同店では、さらに進化した飲み方で、ヴァン・ナチュールを提供されています。)。
 
その後、数々の変遷を辿り、今は大好き鶴野啓司さんという作家のお茶碗で、2年以上飲んでいます。 

鶴野さんの茶碗

陶器、ましてや茶道で使用する茶碗でワインを飲むことについて、違和感を抱く方もいると思います。
他方で、グラスの形状によって、ワインの味や香りが変わることに異論のある方はいないと思います。
 
ワインは、かつてアンフォラという壺(土器・陶器)で作っていましたし、現在でもアンフォラを使用して生産する偉大なワインも存在します。したがって、土で出来ている陶器とワインは、ナチュラルな組み合わせであり、相性が良いはずです。
 
その上で、素晴らしい作り手の器は、そこに入れたものを温かく包み込んでくれます。
深くて広い飲み口なので、香りはしっかりと伝わりますし、中は白の粉引きなので、色もしっかり分かります(ちなみに、赤を飲んでも、今のところ色移りはありません。)。
 
何より美味しいです。ワインの素性やポテンシャルが素直に表現されている気がしています。そして、器も、良いワインを吸収していって育っていくので、器の成長も愉しめます。
 
鶴野さんの器は、重心が非常に低く、持つ手と器の隙間がほとんどなく、手に良く馴染みます。先日、鶴野啓司さんとお会いした際、その点を伺ったところ、土から植物が芽を出してそのまま成長して花が咲く、そんなイメージで、出来るだけすっと自然に立ち上がるように、ろくろを引いている、というお話がありました。
物理的には、器は大地(土)と切り離されていますが、引き続き器が大地に根を張り、しっかりと繋がっているイメージなんだろうと感じています。
 
これは、ヴァン・ナチュールにおけるテロワール、土地(大地)との繋がりや表現、と相似しています。
 
ヴァン・ナチュールの素晴らしさの一つは、囚われから解放し、私たちを自由にしてくれるものです。
ガラスで飲むということも、一つの囚われ、とも言えます。
古くから在る美意識を具現化した茶道で用いる茶碗とヴァン・ナチュールは、根底の美意識みたいな部分では、ほぼ同じで、繋がっているのではないでしょうか。日本人らしい飲み方の一つとしてアリじゃないか、と思ってます。
(ちょうど、2022年10月30日(日)まで、学芸大学の「宙(sora)」というお店で、鶴野啓司さんの個展が開催されています。ご興味がある方は、鶴野さんの作品を手に取ってみて下さい。)
 
色々言いましたが、私自身はハマるとそれにのめり込み、気づくとキャパシティが非常に狭くなっています。フランスワインもそうでしたし、白ワインを好んで飲むことも同じです。
グラスにも、色にも、希少性にも囚われず、沁みる感覚、馴染む感覚にただ寄り添って、もっと自由に自分の好きなものを純粋に味わって、愉しめるようになれたら良いなぁと思ってます。 

ちなみに、のちなみに。。

さらにちなみで、手前味噌ですが、私の父の話が、非常に興味のある内容だったので、ご紹介させて下さい。
 
実家で食事をするとき、ヴァン・ナチュールを持ち込んで、大勢で飲むことがあります。
母は、かなり前からヴァン・ナチュールを好きになってくれて、特に赤が好きです。
(以前に大切にしてたラングロールを、何かのお祝いの時に呑めるように実家のセラーに何も言わずに入れておいたところ、次に実家に行った時に「あのトカゲ、美味しかったわ!直ぐに全部飲んじゃった。また持ってきて!」と無邪気に言われた時は、爆笑しました(笑))
 
他方、父は、母と違い、ヴァン・ナチュールについて、最初は少し苦手な印象を持っていたようです。ただ、父の日に食事した際、渾身(笑)のUlysse Collin(ユリス・コラン)とSTEPHANE TISSOT(ステファン・ティソ)を持って行ったとき、偉大なヴァン・ナチュールの本質と素晴らしさはこういうものか、と理解したそうです。
その時に、父が率直に感じたこととして、こんな話をしてくれました。
 
「時代が変わり、料理が変化している。主に食材と調理方法の変化。
かつて、特に本場フランスのミシェランで星が付くようなフレンチレストランで出される肉料理は、素材の野生味や臭みに対抗するべく、重厚なソースを必然的に伴い、それに合わせる飲み物としてワインが存在した。だから、料理の食中酒であるワインは、自ずと重厚なものにならざるを得なかった。
それが、流通や保存方法が劇的に進化し、鮮度の高い食材を扱えるようになった。かつての臭みも少なくなり、それに伴って、重厚なソースがいらなくなっている。
レストランのスタイルも同じ。アールデコや宮殿のような装飾で飾られた、限られた者しか許されない場所から、気軽に、軽やかな雰囲気を纏って、もっと自然な食事の仕方が提案されるようになっている。
そんな食事やスタイルの変化は、重厚さではなく、どこか軽さを重視する人々のマインドや世相の移行とも何か関係があるはず。飲み物として、ヴァン・ナチュールが登場し、受け容れられている時代背景は、そんな所にあるはずだ。」
 
飲食ではなく、ずっと工業(メカニック)の世界に生きてきた齢75の父ですが、時代の移り変わりや背景、という視座から本質をえぐってるなぁ、と感心したので、ご紹介させて頂きました!