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指を立ててみる -おままごとや隻手音声の世界-

今回は、因果の法則の話をさせて下さい

唐突ですが、因果法則ってご存じでしょうか?
辞書を見ると、因果(因果律)の意味は以下のとおりです。

「前に行った行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え。」

ある結果が生じるのは、原因があり、かつ、原因と結果には何か対応関係があるというものです。
したがって、因果律を素直に逆算すると、ある結果を得たいのであれば、意図して結果と対応関係にある原因を作り出す必要がある、ということになります。
「入力(原因)」と「出力(結果)」の関係性、その働きかけや作用と言えます。

この対応関係は、①科学法則や論理、といった直線的、あるいは可視的とも言える関係性がまず頭に浮かびますが、さらに近年では②運、直感といった、ある種の非科学的・非論理的な関係性が注目され、かつ、それにどう働きかけるか、というアプローチの検討・模索も、一方で主流になりつつあります。
書店でも、全体性(ホールネス)、ティール組織、右脳思考など、そういった試みが記された書籍を目にすることが多くなっているのではないでしょうか。

これは、意思決定において、直観力を磨く、直観力を大事にする手法は、企業経営の場面でも同様です。

ただ、ある出来事がきっかけで、その先があるのではないか。すなわち上記①や②といった因果の法則(因果律)を超えた領域が存在し、そこに着目したアプローチ(働きかけ)の方法があること、さらに、上記①から②への変遷と同様、将来そういったアプローチが注目される日が来るのではないか、と最近考えるようになりました。
今回の記事はそれをテーマとさせて頂きます。

気づきのきっかけ

こういったアプローチの存在に気づいたきっかけは、門林奨さんのブログと私のある経験を通じた悩みの振り返りからでした。
 
皆さんも経験あると思うのですが、自分達で全力を尽くしたとしても上手くいくかどうか分からない、最後は運次第だよね、というケースに携わることがあるのではないでしょうか。

スポーツの試合などが典型例ですが、私が関与する事業再生の分野では、私が尊敬して憧れるレジェンドの方々は、実力・力量という側面のみならず、爆運というべき何かによって結果を手繰り寄せていくことを常に体現されていました。
これは上記②の典型例だと感じています。「神は細部に宿る」という言葉を大切にする姿勢も、どちらかというと、①ではなく②の側面を意識した結果に向けたアプローチ手法だろうと考えています。

最近、私も最終的に運が味方しないと決して上手くいかない、という案件に携わることがありました。そういった困難なケースに直面し、案件当初から、自分たちの実力を全て出し切るだけでは足りず、どうやったら運を手繰り寄せられるか、ということを意識していました。
それが奏功したかどうか全く不明ですが、思いがけないタイミング・方向から支援等を頂き、最終的に良い結果を導くことができました。誰がみても、本当に運が良かったよね、という評価しかできない内容で、それが自分たち実力を大きく凌駕した、運のおかげだったことは、当事者である私たちが一番良く理解しています。

ただ、そういったアプローチを意識しすぎるあまり、それが行き過ぎると、「こうしなければ、上手くいかない。」「結果が出ないのは、こういう(原因)行為をしていないからだ。」という弊害に陥ることがあります。事実、その案件の最中、自分も周りも疲弊し、優しくなれない、いわば因果律の枠に自分達が絡めとられているという事態になりました。
このような状態の気づき自体も、案件の真っただ中にいるときは、些細な違和感のみで、案件が一段落を付き少し時間をおいて振り返った際、門林さんのブログと相まって、ようやく気づくことができました。

同時に、因果律に絡めとられない手法が存在し、その手法を意識的に利用することができれば、そういった弊害を乗り越えられる可能性があるとも感じるにようになりました。
すなわち、因果律を超えたアプローチの存在とその手法についてです。

因果律を超えたアプローチ??

上記①や②の先、因果の法則(因果律)を超えた世界が存在し、そこに着目したアプローチ(働きかけ)の方法がある、といっても、何て荒唐無稽なことを言っているんだと思われるのは至極当たり前だと感じています。

ただ、その世界が体現されたものは、この世の中に多数存在します。

その一つが、『禅』の世界ではないでしょうか。
私が禅を感得できているわけではないですが、禅とは、二元論的な理性の世界、さらには直観でも補足しきれない世界を捉えようとする試みと感じています。

その一例が、私なりの理解で「隻手音声」です。
隻手音声とは、「両手を打てば音がする。では、片手(隻手)で鳴らそうとすればどんな音がするか?」という江戸中期の白隠慧鶴禅師の公案です。

科学や論理、さらには運、直観というアプローチですら、片手で音は鳴らせません。もはや理屈(因果律)ではあり得ないのです。
でも、理屈ではあり得ない世界がある。それが厳然と存在し、ある種の働きかけによって音がなる世界がある。そういった働きかけ、結果の関係、存在があるということを、隻手音声は端的に示しています。
この公案の意味や解釈は様々であるものの、科学・論理といった①、さらには運・直観といった②すら囚われずに、自由になり、そこから出発した発想や働きかけで、何か生まれることがあるということを表象しようとした試みの一つ、とも理解され得るものと感じています。

じゃあ、どうすれば良いの??

そのアプローチ(世界)があることは、何となく理解できたとしても、じゃあ、どうすれば実現できるのでしょうか。

あくまで私の仮説に過ぎませんが、今のところ思い付いているのは、(1)そういった意識が具現化されたものに出来るだけ接する、(2)(やり方はイマイチ分からんでも、、)取りあえず何かやるときに、その領域を意識して行動してみる、の2つです。

(1)は、禅の教えや書物、白隠慧鶴禅師などの禅画や書、さらには鈴木大拙、ケン・ウィルバーの書籍などに、そういった点を意識して具現化された覚者の作品に日常的に触れる、ということが有用だろうと感じています。

ただ、それだけでは、どうしても受動的になってしまうので、実践として(2)が必要と感じています。
身体智(身体感覚)という面では、頭、心、腹より下、感覚的には自分の足裏、さらにはその下に意識を落とせるかどうか、というものと感じています(私の理解では、身体智(身体感覚)は意識の顕現の度合いを測る、一つの有用な指標と感じています。意識の在りよう(意識段階や状態)によって、身体感覚や表現が変わってくるからです。そして、これは後述する、インテグラル理論でいうグロス(物質)=頭、サトル(感情)=心、コーザル(魂)=腹・腰、ウィットネス(目撃者)=足の裏、という対応関係にあると考えています(ノンデュアル(非二次元)は、今のところ、私に身体的リアリティの欠片すらないので分かりません。。)。

インテグラル理論の枠組みから考えてみる

上記①から②の変遷をインテグラル理論の枠組みを適用して分析することで、その流れを把握して、さらにその先の推移が予測できようになると考えています。
分析の枠組みは、ご紹介した門林さんのブログの記事の内容のとおりで、身体智でも記載したグロス(物質)、サトル(感情)、コーザル(魂)、ウィットネス(目撃者)、ノンデュアル(非二次元)という領域による分析です。
(ウィットネス(目撃者)は、自らのコーザル(魂)すら客観的な対象物として相対化して観賞できる意識状態。ノンデュアル(非二次元)は、もはや自己から区別された対象物として何かを理解するのではなく、全てを区別せず包摂して捉える意識状態(自他未分離の状態)、と理解しています。)

実は、私たちの身の回りのあらゆることで起きているのですが、主にどの領域に働きかけるか、という意識次第で、偶発的ではない、意図したものとして、この世界への顕れ方(顕現されたモノ)は異なっています。

コップを例にあげましょう、
マグカップなど、工業製品として画一的に大量生産されたプロダクトは、基本的に飲料を飲む、ということ機能的側面が重視され、効率性という名目の下、それ以外の要素が排除される傾向にあります。容器としての物質的機能(飲料を一定量、備蓄して、口に含めるようにする)という表層部分に着目されて生成されたものであり、物質(グロス)的アプローチによる産物と言えるでしょう。
そして、そのような器に触れたとしても、器そのものに対する感動など、私たちの感情や魂が大きく揺れ動くといったことはありません。

その器が、職人のプロダクトだった場合、様相は異なってきます。
それ自体が、機能性を超えた味わいを持つのみならず、円熟した職人のものとなれば、作品と呼ばれるようになり、それに触れる度に、意図せず、感動や様々な想いを抱くことがあります。私たちの心や魂を深く揺さぶることがあるのです。

それは、そのプロダクト(作品)に、職人(作者)の感情、さらには魂が化体し、プロダクトを通じて、私たちの感情や魂が共鳴する現象といえるのではないでしょうか。
言い換えれば、この現象は、物質(グロス)の先、すなわちサトル(感情)、コーザル(魂)から何かが作用し、それが他者に伝わるということでもあります。

別の言い方をすれば、「what」ではなく「how」に着目してみる手法で、あるモノゴトを理解することです。
「what」という表面や外観ではなく、それがどういった意識に基づいて、あるいは、領域に働きかけようとして生成されたか、すなわち「how」という運用面に着目する。
このアプローチの方が、そのモノの内奥(真理)に在る何かに肉薄できることは、皆さんも経験的・体験的に理解できるものではないでしょうか。上記のコップの例も、「how」の視点で眺めたときの感じ方、という側面から眺めた景色と言えるのではないでしょうか。

そのような分析から演繹すると、グロス、サトル、コーザルの先、目撃者(ウィットネス)、非二次元(ノンデュアル)の領域が在る以上、それぞれの領域に意識的に働きかけて、具現化するということも当然あり得るはずです。

沢庵和尚、白隠慧鶴禅師などの名僧たちが書いた「〇」、「一」、「無」といった書。

これは幼児ですら書ける極めて単純な文字です。しかし、その意識(働きかける領域)次第で、現象界への顕れ方は全く変わっています。そして、それについて、私たち凡人ですら、触れたとき、曖昧かもしれませんが、何となくその違いが分かるセンサー(感覚)を持っています。

本当に不思議ですが、意識(想い)は、この世界に具現化する際に化体する、という現象は間違いなく存在するはずです。
(蛇足ですが、化体のプロセスをよくよく考えると、化体という現象は、制作の時点のみならず、制作後の完成物でも、理論上は出来得ると考えています(ただ、化体のし易さの違いはあると思っています。)。)

禅の公案にヒントを得る

禅の公案に「倶胝竪指(ぐていじゅし)」というものがあります。
 
 倶胝和尚は、誰が何を問うても、ただ一指を立てるのみだった。
 彼の弟子である侍者に、あるとき、訪問者が尋ねた。
 「倶胝和尚が説く、仏法の要点は、どのようなものですか」

 侍者は、直ちに指を一本立てて見せた。
 これを聞きつけると、倶胝和尚は、刃で侍者の指を切断した。
 痛みのあまり泣きながら侍者が逃げようとすると、倶胝和尚は呼び止め、指を一本立てた。
 これを見た途端、侍者は忽然と開悟した。

この公案ついて様々な解釈がありますが、私なりに理解は以下のとおりです。
一指を立てる行為について、和尚と侍者の間で外観上の差異は全くありません。ただ、一指を立てる行為の内実、すなわち働きかけている領域が、和尚と侍者で全く異なるのです。そして、その差異は、論理を超えた非言語領域を感得させるものなので、言語で理解させることはできません。
だからこそ、似て非なるものとしての違いを、経験的に体感させるべく、和尚はあえて侍者の指を切断する、という行為に及びました。
ただ、和尚の全人格的な投げかけをもって、侍者はその意味するものを悟る、というものです。

まさに、ある行為(一指を立てる)の内奥にある意識、働きかける領域(グロス(物質)なのか、目撃者(ウィットネス)や非二次元(ノンデュアル)なのか)によって、その行為の意味を全く異なるであることを象徴的に表すエピソードの一つではないでしょうか。

娘とのやり取りからも考えてみました

 「お父さん、●●ちゃんが野菜切るから、食べて!」
 「(モグモグモグ)。とっても美味しい!!有り難う!」
 「じゃあ、次はリンゴ切るからね~。はい、どうぞ!」
 「(モグモグ)美味しい!!」
 「じゃあ、次はお父さんがイチゴを切ります。はい、どうぞ。」
 「有り難う。(モグモグモグ)。美味しいね~。」

はい。ご想像のとおり、おままごとです(笑)。
他のご家庭も同じだと思いますが、子供はおままごとを無限ループのように延々と繰り返しますよね。よくまぁ、飽きずに、、と感心してます。

ただ、良く観察すると、2歳児でも野菜やフルーツの玩具が、食べられないものだということを重々承知して、おままごとをしています。

じゃあ、何故こんなに繰り返すのだろう、ということを考えていたところ、こんな仮説を立ててみました。

幼児は、特に生まれた直後は、善悪という価値観を持っていない、すなわち二元論といった感覚を持ち合わせていません。そうだとすれば、無自覚ではあるものの、目撃者(ウィットネス)、非二次元(ノンデュアル)の世界に生きているのではないでしょうか。

おままごとも、その領域での遊戯。想いや意識を玩具に化体し、それを交換、確認し合う作業、と捉えれば、なぜ玩具であると知りつつ、飽きずに繰り返し楽しんでいるのかが、何となく理解できた気になりました。

確かに、グロス(物質)という表層面だけで捉えれば、おままごとは、決して食べられない玩具を、お互いが食べ合う遊戯です。私を含む大人は、既に善悪二元論(理屈)というレンズに染まっているため、どうしても理屈の世界から眺めます。理屈の世界からみれば、食べられない玩具を、あたかも食べている振りをする以上、不可思議なものと評してしまいます。

しかし、子供は、野菜の玩具に、グロス(物質)の先にある何かを載せて(投影や顕現)しているのです。
その「何か」を相手に渡し、相手はそれを受け取る。その受け取りの象徴として、食べる行為(自分の体(心や魂)に入れる)をしているのです。

その「何か」は感情や魂の時もあるかもしれませんが、さらに上述のとおり子供たちは目撃者(ウィットネス)や非二次元(ノンデュアル)の世界に生きている以上、その領域から引き出されたものを、玩具である野菜やフルーツに載せていることがあるはずです。
その「何か」を玩具に載せて、相手に渡す。渡された相手は、玩具を食すという行為を通じて、その「何か」を自分に取り込み、受領する。その確認・交換行為を続ける。

おままごとは、実はそんな目撃者(ウィットネス)や非二次元(ノンデュアル)の世界の顕れ方の一つではないかと感じました。その気づきがあった後は、娘とのおままごとの無限ループを、今までと違った味わいで楽しむようになりました。(親ばか丸出しです(笑))。

経営の新たなアプローチとして

上記の見方からすれば、右脳的思考、直観、運を味方にする、といった手法は、コーザル(魂)的なアプローチと捉えることができる、と考えています。
社員のモチベーションアップのためにEQ(感情指数)を活用する、といった手法は、主にサトル(感情)の領域にアプローチする方法と捉えることができるのではないでしょうか。

そこから演繹すると、目撃者(ウィットネス)の領域に主に作用させようとするアプローチ、さらには非二次元(ノンデュアル)の領域に作用させようとするアプローチは存在し得るはずです。

20世紀前半のフレデリック・テイラーによる科学的管理法→20世紀後半のコンサルティングによる経営改善→近年のコーチングの盛り上がり、といった推移の一つの見方として、グロス(物質)(外面)→サトル(感情)(内面)→コーザル(魂)(さらなる内奥)、という働きかける領域の推移の変遷と観ることもできるのではないでしょうか。
ティール組織も、サトル(感情)やコーザル(魂)に主にフォーカスして働きかけをする組織、と言えるかもしれません。

このような推移からすれば、コーザル(魂)→目撃者(ウィットネス)→非二次元(ノンデュアル)、という変遷が、今後ビジネスや経営の世界でもあり得ると感じています。

なお、こういった先の領域に働きかけることは、それ以前の領域(グロス、サトル、コーザル)が軽視されるということに繋がらないとも考えています。
これは先ほどの具体例で、コンサル的な手法(感情)が実績等の外面上の向上をもたらしますし、コーチング的な手法も実績、さらにはモチベーションといった観点でも向上させるものとなっています。
これは、高次の領域は、低次の領域を「超えて、含む(transcend and include)」関係にあるため、全てを捨てずに包摂した形で現実化するものだからです。

最後に(補助線の一つになれば)

ここまで書いて、かなりぶっ飛んだ話をしていることは、私も良く分かっているつもりです。。。(笑)

ただ、アインシュタインの名言のとおり、複雑な問題を解決しようとすれば、より高次の次元からアプローチする必要があること、そのためには相対化という手法が有用であることは、以前の記事で述べさせて頂きました。
アインシュタインの名言からの気づき(相対化のススメ)|山本 昇|note

現在のVUCAと評される複雑な環境の下、右脳思考、直観ですら対処できない問題について、異なる手法を見据えておくことは、私たちの心理的安全性(これが唯一の対処方法でないんだ、と思えること)を確保する、あるいは、新たな視座を持つ、という意味において、非常に大切であると考えています。

読んで頂いた方のささやかな補助線になれば、大変嬉しいです。
最後までお読み頂き、有り難うございました!