何がどうなったら公平と言えるのか? アメリカの寄付文化を支える考え方

先日、「最後通牒ゲームの謎」という本を読みました。

最後通牒ゲームというのは、以下のようなゲームです。

  1. あなたが1万円をもらったとします。

  2. しかし、あなたは、その1万円の中から幾らか(0円以上1万円以下の中の幾らか)をBさん(あなたの全く知らない人)にあげなければならないという条件が付いています。幾ら渡すかは、完全にあなたが自由に決めることが出来ます。

  3. Bさんがあなたの申出を受け入れれば、Bさんはあなたが提案した金額を受け取ることができ、あなたはその1万円からBさんに渡した残りの金額を受け取ることができます。しかし、Bさんが断ると、Bさんが何ももらえないだけでなく、あなたも何ももらえなくなります。

  4. Bさんはあなたのことを知りませんが、あなたという人がいて1万円をもらい、その中からBさんに○○円をあげようと提案してきていることを知っています。

  5. また、あなたもBさんも、ゲームのルールを事前に知っています。

この時、あなたなら幾ら、Bさんに提案するでしょうか?

更に本の中では、独裁者ゲームというゲームも紹介されています。独裁者ゲームは、基本的に最後通牒ゲームと同じ構造なのですが、異なる点は、Bさんにはあなたの提案を断る権限が与えられておらず、たとえ提案が0円であっても、Bさんはあなたの提案を受け入れなければならない、という設定に変更されています。従って、Bさんへの提案を0円とし、あなたが1万円をまるまる受け取ることも可能な仕組みに変更されている訳です。

この時、あなたなら幾ら、Bさんに提案するでしょうか?

其々のゲームで、幾ら提案するかは、人其々なのではないかと思います。ただ、最後通牒ゲームで提案する金額より、独裁者ゲームで提案する金額の方が小さくなる、というのが、当り前のように思うのですが、

先日、このゲームをアメリカ人の知合いにやってもらったところ、最後通牒ゲームで提案した金額よりも遥かに大きな金額を、独裁者ゲームで提案する、と言うので、非常に驚いてしまいました。

しかし、彼が言うには、そうでないと、公平(Fair)とは言えない、とのことでした。

なので、理由を教えてもらったところ、彼曰く、最後通牒ゲームでは、Bさんは自ら選択し判断することが出来る。一方、独裁者ゲームでは、Bさんは自ら選択し判断することが出来ない。だから、とのことでした。

これを聞いて、何が Fair なのか、そういう風に考えることも出来るんだ、と、ちょっと感心してしまったので、共有させてもらいました。

それと、サンプルが一人なので、一般化するのはどうかとは思うのですが、この考え方をしていると、寄付することは当然のことなのだろうな、と、アメリカ社会に寄付が根付いている理由が、こういうところにあるのかも、と思えた次第です。

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