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小倉城下町さんぽ・鷗外さんの「小倉日記」⑧お手伝いさん

《六月二十八日。婢春を雇ふ。肥後國比那古の産なり。吉村氏。

小倉日記には、日常生活とくに家の中のことはあまり書かれていませんので、小倉三部作「鶏」「独身」をよりどころに、鷗外さんの私生活を見てみたいと思います。
鷗外さんは第12師団軍医部長(中将)という高位・高官。
エリートですから、年俸は3000円くらい(今の感覚で約3000万円)、その上著作料もあるので、馬の世話をする馬丁やお手伝いさんを雇うなど何でもありません。
小倉に来て初めて雇った女中(お手伝い)さんは、熊本県日奈久生まれの吉村春さんです。
春さんは16ばかりの小柄で目のくりくりした娘で、「鶏」の主人公・石田(鷗外さんがモデル)はとても気に入ったようです。
でも、独身の鷗外さんは、春さんを置いた時から、あらぬ噂をたてられないように家主の宇佐美さんの女中さんを夜だけ借りてきて春さんと一緒に寝かせました。
ところで、当時の婢(はしため=下女)の生活はどうだったんでしょうね。

「家庭下女読本」(墨堤隠士著)などを参考に明治時代のお手伝いさんの生活などを調べてみました。


女中さんにも「序列」があったようです。少し裕福な家庭の娘は、14歳位で小学校を卒業したあと、女学校に行ったり、結婚まで家事手伝いをするほかに、華族や実業家といった上流家庭に、「小間使い」として奉公に出ることもありました。
小間使いを雇うような上流家庭では、たくさんの女中が働いています。その女中には序列があり、家族の世話や接客など奥向きの仕事をする上(かみ)女中と、炊事洗濯などを担当する下(しも)女中のふたつに大きく分けられました。
小間使いが、行儀見習い的な面もある良家の娘の仕事だったのに対して、炊事や洗濯、掃除などがメインの下女中にはハードな肉体労働が待っていました。当時は下女(げじょ)と呼ばれていました。
貧富の差が現代よりはるかに大きかった明治時代。貧しくて兄弟姉妹が多い家の女の子は、口減らしのため子守りや下女などの奉公に出されます。
奥さま、お嬢さまのお相手をする小間使いは、ある程度教養があって、ちょっと見た目のよい良家の娘が好まれたのに対して、炊事など台所まわりの仕事をする下女は身体が丈夫であることが第一条件でした。炊事、洗濯、掃除など家事労働にかかる労力は、現代とくらべてはかりしれません。だからこそ、中流家庭でも女中が必要とされたのです。

下女読本本文

『女中使ひ方の巻』(大正7年刊)によると

「ご飯炊き」の下女の一日は朝5時頃からはじまりました。 
朝は、井戸の水汲みから始まり、台所の掃除や、使用人と主人一家の食事の用意。電気やガスはまだありませんので、火を起こしクドでご飯を炊きます。もちろん自動ではないのでつきっきりです。
そのあとほうきで掃いたり、雑巾で拭き掃除をして、食器洗い、流しの掃除、洗濯板で洗濯をすませて、自分の身づくろいをします。
終わると雑事などをして11時から昼食の準備。
昼食のあとは、後片付け、裁縫、風呂の焚きつけ、これは薪を使うのでやはりつきっきりになります。
4時頃から夕食の準備。
5時には使用人の食事を用意して、6時に主人一家の夕食。後片付けをして、8時頃からやっと各自の自由時間。就寝は夜10時くらいになります。
1日15時間拘束のブラックな仕事です。
決まった休みは年間に盆と正月の2回だけ。
このスケジュールは上流階級の家庭のもので、上流階級では、女中の数が多く分業になるので、多少楽になるのですが、中流程度の家庭で「一人女中」の場合は、休日も自由時間もなく、寝る時間さえ満足にとれないほど、こき使われたという話もたくさん出てきます。 
鷗外さん宅は独り者ですから、お手伝いさんもずいぶん楽だったでしょうね。
この後、鷗外さん宅はいいお手伝いさんに恵まれず、次々と替わっていきます。

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