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小倉城下町さんぽ 秋月街道㉒佐野経彦と門司港レトロ

北九州都市モノレール「徳力嵐山口駅」手前に銅板屋根の乗ったおしゃれな大きな鳥居(昭和9年築)が目に入ります。

モノレール沿いにあるお洒落な鳥居。額の文字は皇女和宮の元婚約者、有栖川宮熾仁親王。

明治政府の政策で成立した教派神道十三派のうちの一派、古神道「神理教」の本部です。
教派神道とは、布教をする神道で、天理教、金光教なども十三派の一つです。

神理教はニッポニカ百科事典には「神道教団。教派神道十三派の一つ。佐野経彦(つねひこ)を教祖とする。医者でもあった経彦が、家伝の神道の再興を図って活動したのに始まる」とありました。
令和5年夏、名称を「徳力神宮」と改称しました。

神理教の創始者、佐野経彦は1835年(天保5年)徳力生まれ、小倉藩の国学者・西田直養に学び、幕末から明治の世情の混乱の中で、人々を救いたいと神理教を創設、一時は全国に数十万人の信者を擁しました。

教祖・佐野経彦像

また、長州との戦争には医者として従軍、「豊国戦記」など生涯に300以上の著書を残しています。

小倉戦争を描いた「豊国戦記」

また、佐野は北九州市を代表する観光地、門司港レトロの基礎になる門司港の発展に尽力した一人です。
佐野は1886年(明治19年)、山口県長府の豊永長吉、企救郡蒲生(現在の小倉南区蒲生)の高山定雅(蒲生神社宮司)らと、江戸時代に塩田であった場所 15 万平米規模を埋め立てて築港、筑豊で多く取れる石炭を輸出することを計画し、地元住民との補償交渉も終え、福岡県知事に建議しました。
この民間の計画に明治19年に福岡県令(県知事)に就任した安場保和から待ったがかかりました。

県令・安場保和

安場保和は旧熊本藩士。横井小楠の門下生となり四天王といわれ、実学党に属し藩論を佐幕から王政復古へと変えた一人。明治2年(1869)には新政府の参与となり、明治4(1871)年岩倉使節団に随行して欧米を歴訪しました。
その後、胆沢県(水沢)の大参事、酒田藩大参事、熊本藩小参事を経て、大蔵省に転じ租税権頭になりますが、使節団として渡米。
帰国後は福島県令となり、以後、愛知を経て福岡の県令になり、地域の開明化に努めました。
安場は中央政府から九州に鉄道を早期敷設するという使命を持って福岡県令に着任、門司港築港は鉄道敷設とともに官(国家)が行うべき大事業と考えていたようです。

官が新たに示した計画は、佐野らの計画をはるかに上回る、37 万平米規模の埋め立てを含む大規模な築港でした。

ただ、当時の政府はお金がなく、築港には民間の力が必要なので、1888(明治 21 年)12 月、渋沢栄一、大倉喜八郎、安田善二郎、浅野総一郎など当時の財界の指導者に相談、彼らを株主にして「門司築港株式会社」が設立され、翌 1889 年 7月に門司港築港が始まりました。

門司築港会社のおもな株主(一部)

その後、同じ年に国の「特別輸出港」に指定され九州の鉄道の起点として整備、1916年(大正5年)には横浜、神戸を抜いて日本一の港になり繁栄を極めることになります。

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